多古町島 米どころに浮かぶ孤島と宗教弾圧の歴史
島地区
多古町の中心地南部は丘陵に囲まれた広大な田園地帯が広がっており、島地区は文字通り田んぼの中に浮かぶ小島のような集落となっている。東西二つの丘で構成されており、東側は城址(現在は畑地)、西側は民家で構成されている。
天満宮
妙見宮
大木商店
不受不施派(予備知識)
不受不施派とは、江戸時代の禁教である。弾圧された宗教としてはキリスト教が有名だが、日蓮宗の一派もその対象だった。
日蓮宗を興した日蓮は、他宗派を邪教と攻撃して交流しないようにしていた。この教えの実践として、他宗派の信者からの布施を受け取らず(不受)、他宗派の信者への法要は行わない(不施)ようにしていた。
ことの始まりは1595年、豊臣秀吉が方広寺を建立したことに始まる。天台・真言・律・禅・浄土・一向(浄土真)宗・日蓮・時宗から100人の僧侶を集めて法会を開こうとなったとき、日蓮のスタンスと矛盾するこの会に参加するかどうかで激論が巻き起こったのだ。
教義を盾に時の権力者に逆らえば碌なことにならないのは目に見えており、また一応妥協案で許されそうな雰囲気もあったので大多数は参加する方向で固まっていた。しかしそれに反対したのが日奥という僧侶だった。日奥は法会に参加こそしたものの抗議の姿勢を貫き、物議を醸すことになった。
のちに秀吉が亡くなったあと法会を開いた徳川家康は、かなり譲歩して日奥に参加するよう促したもののやはり拒否。日蓮宗内で討論を行っても結局曲げることはなく、流罪となった。流罪前後の布教活動を通じて池上本門寺など多くの共鳴者を得たものの、1665年に禁教に指定。キリスト教と並んで弾圧の対象となり、明治9(1876)年まで続いたのだった。
正覚寺
日蓮宗不受不施派の寺院。禁教となった当時、表向きは不受不施を捨てたものの密かに信仰を続けた寺院の一つである。寺院は戸籍制度と密接に結びついており、表立って信仰することはできない。そこで地下組織や複雑な仕組みを作ることで弾圧逃れや不受不施の実践を両立しようとした。
三十番神
正覚寺の裏にある神社。三十番神とは日替わりで国家を守護する神々のことで、最澄が始め日蓮宗が積極的に祀るようになった。これは日蓮宗寺院の境内社でよく見られ、稲荷や鬼子母神などを単体で祀るケースも多い。
志摩城址・八幡大神
源頼朝を助けたことで関東の一大勢力となった千葉氏の城で、千葉氏終焉の地でもある。内乱で千葉市の猪鼻城を逃れた千葉宗家は多古城と志摩城にそれぞれ逃れたもののすぐに陥落、近くの寺院で自害した。
島八景
正覚寺の看板に書いてあったもの。島八景がいつ頃から言われ始めたのかはわからないが、いい景色なのは間違いない。
行った日 : 2023/06/24
余談
不受不施派の信仰が盛んだったのは岡山(備前)と下総東部であることはよく取り上げられるが、いすみ鉄道沿線にも信仰があったことは意外と知られていないらしい。現在でいう上総中川駅周辺の行川地区を中心に密かに信仰が生き残っており、いすみ市正立寺(地名)の妙松寺に不受不施派の寺院が現存する。
明治時代になり島流から解放された日妙は、一大信仰地であった岡山でも多古でもなくいすみ市へ身を置くことにしたそう。個人宅の敷地に庵を構えて布教活動に専念したとか。
なお、妙松寺の近所で地元の方に話を聞いたというGoogleマップの口コミによると、このお寺に隠し扉の類はないらしい。島地区の話と混同したのかもしれない。
参考
専門でもない宗教を概略を書くのにちょっと苦労した。
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