見出し画像

八街市大谷流・小谷流 勢子が描いた絵馬が伝わる神社


大谷流(おおやる)

本福寺

谷津沿いの集落の一番奥に寺院への入り口がある
入り口には題目塔が置いてある
本堂
左右の施設を後から増築したのがわかる
古墓が並んでいる
住職の墓だろうか
境内の一角は稲荷神社への入り口

稲荷神社

しっかり根を張った杉の巨木の周りに手水舎や灯籠、祠が並ぶ
五神名地神塔もあった
完成3年、天保6年と刻んである
明治21年の水神社
石段
本殿はおそらく改築した新しいもの
薄暗い参道が薄曇りでさらに暗く
趣がある

小谷流(こやる)

稲葉村

塩古郷という大昔の行政区分があり、西御門・根古屋・岡田のあたりが含まれていたと八街市史に記されているそうだが、この看板によると大谷流・小谷流も稲葉村としてその一部に含まれていたらしい。文章がぼんやりしているが、稲葉村が大谷流村・小谷村・稲葉村に分かれたという意味だろう。立地は小谷流の北端、ゴルフ場がある台地から谷津を挟んだ向かい側を指すと思われる。

稲葉の墓と山本氏の墓

「稲葉」の看板から少し南に行ったところにある墓地脇の看板。「稲葉の墓地」というのは「稲葉家の墓」ではなく「旧稲葉村に所在する墓地」という意味であることが、先に紹介した看板で初めてわかる。
大抵農村集落は昔から伝わる姓を受け継いでおり、この集落では山本姓がそれで、にもかかわらず山本姓はこの集落に現存していないといった趣旨の文章が書かれている。
正直わかりづらすぎるので二つの看板は隣に置いて欲しかった。

五神名地神塔

旧稲葉村から台地上を通って根古屋へ向かう農道
天保11年の祠
摩耗して何を祀っているかわからなくなりつつあるが新しいお供えがあった
祠の近くに半分埋まった塔がある
五神名地神塔
埴安媛命・倉稲魂命・大己貴命・天照大神・少彦名命の名を刻んだもので、旧佐倉藩領内によく見られる
立ち入り禁止看板は種鶏場のもの
種鶏場とはひよこを産む有精卵を産むための鶏を育てる養鶏場のこと
ただ航空写真を見る限り種鶏場は緑に覆われており、廃業済みと思われる
地図ではわかりづらいが、稲葉村南部へ切れ込む谷津がある
かつて田んぼだったと思われる谷津は荒れ、両側は低木に覆われていた

神明社

稲葉村北端の杉林の中にある神社
文政13年の鳥居が壊れていた
柱だけかろうじて立っている
壊れた部材は土に埋もれつつあった
1849年、徳川家慶による鹿狩りが小金原(現在の松戸市)で行われた。その際に鹿を追い立てる勢子として稲葉村の住民が駆り出された。
勢子とは動物を追い込む役割全般を指す。松戸市にも幕府の牧はあり、そこにも普段から勢子として参加した村民はいたはず。佐倉藩の牧からも駆り出されたということはよほど人が足りなかったということだろうか。
この看板は、勢子の一人である酒和紋三郎が鹿狩を描いて奉納した絵馬の説明である。
安政4年の手水鉢
社殿裏の杉の巨木
神社の屋根が杉の木に合わせて凹んでいた
竹と倒木が目立つ
令和元年台風以降、こうした荒れた山林はよく見る光景になってしまった
稲葉村から谷津田を眺める
下流方面はひたすら田園が広がっていた

神明社

小谷流を縦断する街道沿いの民家脇にもう一つの神明社がある
民家の敷地内にあるためか鍵がかかっており、入ることはできない

小谷流の南部台地はゴルフ場やドッグラン、温浴施設や宿泊施設が並ぶリゾート地になっていた
かつての姿
神明社がある台地突端の民家以外は、落花生畑と民家が点在するエリアであることがわかる
台地の歴史を今に伝える唯一の祠がリゾート地の一角にある
二つの祠
祠自体は新しいもの
そばには大正7年の手水鉢があるが、その下にある台座はおそらく江戸時代のもの
石の整形が機械化される前の鑿の痕跡が見て取れる
木の根元にはもう一つの木祠

永福寺

小谷流集落の中央、街道沿いにある
大きめの寺院
由緒ありそうな雰囲気があるが、市の看板が建っていなかったので詳しい歴史はわからない
ちょっとした飾り
菊が流れている様子を彫ったもの
立派な宝篋印塔が建っていた
山門をよく見ると、両脇にも何かしら施設が付随していたことがわかるほぞ穴が開いていた
ここに木材を挿したのだろう

行った日 : 2023/02/25

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?