夢だったアナウンサーを辞めて、これから。
まずは今後に関して。
10月から北海道の道東にある「弟子屈町」の地域おこし協力隊として活動していきます。
今後の活動に関し本当に大まかに伝えると、津別町を中心に活動されている「道東テレビ」さんのお力をお借りしながら弟子屈町のシティプロモーション事業を皮切りに様々な活動をしていきます。
アナウンサーとしての最後の配信で「まだまだ北海道で頑張りますよ!」の一言だけ残して北海道を離れたので様々な憶測が飛んでいましたが・・・
10月からは道東の弟子屈町に住んでいます。
「弟子屈」と書いて「てしかが」と読む。
まずはこれだけ覚えていただけましたらと思います。
『全ては必然』
僕がこの決断に至ったことを今になって振りかえると
この言葉に集約される気がする。
北海道に残るきっかけ、理由に関しては以下に記しているので時間がある時に目を通していただけたら嬉しいです。
幼少期からの夢だったアナウンサー
1年目の胆振東部地震の取材から始まり、学生時代には出会えなかったような方々や環境を前に、この仕事の重みを感じる毎日を過ごしていた。日本の中でも課題先進地と呼ばれる北海道で、政界、スポーツ、第一次産業などなど様々な視点の第一線で取材。
そうした現状を発信することに本当に大きなやりがいを感じていた中
どうも自分の中で、もどかしさも感じていた・・・。
当たり前のことだが、放送した先には、その放送を機にさらに奮闘する地域の住民や行政、民間企業がいる。
地上波での発信は、あくまで「点」でしかなく、その先にその点を「線」「面」「球」にしていくのは当事者である取材対象者の皆さんであり、一放送機関、一取材者としてすべての事象にずっと密着し続けることはできない。
もっと言えば、密着し続けたところで、その事象に対し、自分は第3者であり、傍観者でもあり、目の前で起こる事象を摘まみ上げて発信することが何よりの使命であった。
(社会人1年目の胆振東部地震の被災地取材で痛感した...)
ただ、どうしても、その先の事象にもっともっと当事者として深く介入していきたいという思いが日に日に増していた。
そんなことは、「しっかり学生時代に自己分析をしていたら、就活の段階で気づくだろ!なんでメディアを志望したんだよ!」といった声も聞こえる・・もしかすると、当時の自分もぼんやり、うっすら気づいていたかもしれない。
でもそれ以上に当時の自分は
「アナウンサーになるという幼少期からの夢を叶えるんだ。」
この一心だった。
学生時代を振り返ると結構多くの身の回りの人に「アナウンサーになるから!」と公言していた自分がいた。
アナウンサーは今の時代でも、そう簡単に誰でもなれる職種というわけではない。
公言したからには夢を叶えたい。
夢をあきらめるような人生は送りたくない。
こうした自分の中でひとりでに作り出したエゴのようなものもあったかもしれない。
アナウンサーとしてキャリアを歩みだせたことは本当に自分の人生にとって大きな財産でしかなく、後悔など全くない。
北海道と僕。
退職を申し出たのが、日本中がコロナ渦にあった2020年の6月上旬。
実は、当初は「一度北海道を離れ、関東で地方創生や地域おこしに関する勉強をしてきます」といって、退職を申し出ていた。
ただ、後ろを振り返った時に、わずか2年半ではあったが、マスメディアの先頭で活動する中で、北海道にできたたくさんの大義、ご縁がたくさんあったことにも気づいた・・・
また、これから住む道東・オホーツクエリアでは、若い方々を中心に様々なムーブメントが起こっている。企業や肩書き関係なしに、様々な思いを持った個人が「居場所」を形成し、仲間を増やし続けている。
きっとそう簡単にいかないことばかりで唇をかみしめる事もたくさんあったのだと思うが、僕にはそうしたムーブメントの渦の中にいる皆さんが本当にまぶしく見えた。
「北海道を離れる」決断をした先に、北海道を俯瞰してみた時。
改めて北海道が持つ魅力や未来の可能性も再認識できた。
「このまま北海道を離れたら、一生後悔する..」
この気持ち以外の何物でもなかった。
2年半過ごして感じた北海道
新型コロナウイルスを通し、世の中の常識が大きく変わり、知らず知らずのうちに日常生活のスタンダードも変わってきているのは紛れもない事実。
そうした中で、地方の在り方や捉え方も大きな変換点を迎えてきている。
僕は「北海道」という土地、「北海道」が持つ可能性は、日本のどこを見ても横に並ぶものはないと感じている。
自分も含め、本州で生まれ育った皆さんからすると、やはり北海道は「1度で良いから行ってみたい場所」「いつか行きたいと思っている場所」であり実際に足を運べたとしても「各所の超有名な観光地を巡っておいしいごはんを食べる場所」くらいな位置にあると思う。
もちろん、それだけでも満足度の高い経験ができるのが北の大地のすごさなのだが。
本音のところは・・・
「もし可能なら、騙されたと思って1週間くらい住んでみてほしい」だ。
「観光地の北海道」から「住んでいる北海道」になった時、日々の生活の中で見つめなおすべきことや生きる上で大切にしたいことなどなど。
きっと見えてくるものがあると思う。
僕はそれくらい、北海道で過ごす日常の中での固定観念をぶち壊された。
これから活動をしていく「弟子屈町(てしかがちょう)」について、今回は何も書かないが、異常なペースで人口は減り続けている。深刻なくらいに。
もちろんこの辺りは協力隊の面接でも話題に出た。
「てしかがちょう」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか・・?何も思い浮かばなかった、そこのあなた。この機会にぜひこちらを・・・。
弟子屈町で何をして何が起こるのか。何に取り掛かっているのかなどなど。これから共有できるものはできる限り共有して行きたいと思うが、まずは、何者でもない自分に唯一今できることは、汗を流すことしかない。
地域おこし協力隊の任期終了までは、あと2年半。
地方の最前線の空気を体感しながらも、弟子屈町・道東で全身全霊をかけ行動していきたい。
「地方創生」、「地域おこし」って何なのだろう
菅新政権の発足に伴い、多くの大臣からもこの言葉が飛び交っていた。テレビやメディアでもここ最近、取り上げられることも更に増えてきた。
ここ半年くらい、今まで以上にこの言葉と向き合い多くの方とこの言葉について話したり意見を聞いてみたりした。
人口が増える事、お金が町に落ちてくること、観光地としてのブランディングが進むこと、域内交流が増える事、交流人口が増える事、人口が増えなくても住んでいる私たちの満足度が上がること。などなど。
その地域によって置かれている状況も違うし、目指す姿も異なってくる。
財源も違えば、気候も違う、持っている資源も違う、もっと言えば、住んでいる人も違う。
実際にいくつかの町を練り歩いてきた中で、やはり自分が住む町に対しての誇り、プライド、当事者意識をもててる人々が多い町は活気にあふれていた。誰もやらされでやっているわけでも、首を絞めながらやっているわけでもない。
みんな、「目の前のピンチをチャンスにする」というより「目の前のピンチをクイズとして捉えながらも楽しんでいた。」
そうした皆さんの目は輝いていた。
「景色は一度でも良いかもしれないけど、人にはもう一度会いたくなる。」
そう思わせてくれるような人がたくさんいた。
とある町の男性が言っていた
「町はそこに住む人がそれでいいと思った街にしかならないよ。」
この言葉がずっと胸に残っている。
「地方創生」、「地域おこし」 あんまり簡単にこの言葉を使いたくないが、この言葉とは今後もずっと向き合っていくんだろうなあ・・・。
あ、ダラダラと書き続けてしまいました。
「アナウンサーならもっと完結に分かりやすく話しなさい!」と、どこからか声が聞こえてきそうなのでこの辺りで終わりにします。
25歳を迎えた例年よりも長かった北海道の夏が終わり、秋に差し掛かる。
気づけばあっという間に今までに体感したことのない道東の寒い冬が来るだろう。
寒天に広がる星々。ダイヤモンドダスト。
全面結氷した屈斜路湖の白銀の世界。
まだ見ぬ道東、弟子屈の魅力はたくさんあるはず。
一度、テレビの世界からは離れますが、今は誰でも、どこからでも情報が発信できる時代です。
これまで学んできたことをしっかりと生かしながら、「発信・伝える事」は続けていきます。
今後、道東で出会うであろう皆様、こんな新参者ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします。