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黒川紀章が〝決別〟したもう一人の師匠(退去まであと16日)100日後に退去する中銀カプセルタワーマンシオン

「中銀カプセルタワーマンシオン」を設計した黒川紀章氏は、「東の丹下、西の西山」と呼ばれる戦後を代表する二人の建築家の元で建築を学んでいます。

京都大学工学部建築学科時代は、庶民の暮らしに寄り添い戦後の住宅の基本となる「DK(ダイニングキッチン)」の生みの親と言われる西山夘三氏に師事しました。

ところが、大学院は東京大学大学院工学系研究科へ進み、数々の国家プロジェクトを手がけた丹下健三氏の研究室に入るのです。

その後の黒川氏の活躍を考えると、最初の師との〝決別〟とも言える進路ですが、カプセルの中から見ると、西山氏と黒川氏のつながりを感じることがあります。

カプセルの未来的な内装について、黒川氏はこだわりはなかったと言われています。黒川氏がこだわったのはあくまで交換可能というカプセルの設計思想と外観です。

一方で、カプセルが発するメッセージは広く大衆に届けられました。当時の黒川氏は、並みの芸能人よりもメディアでの存在感が大きく、建築業界からやっかみがくるほど引っ張りだこでした。

これは、あえてそうした面があると言われています。難解な専門用語を並べるこれまでの建築家の姿勢に疑問を感じた黒川氏は、テレビや雑誌がとりあげやすい〝キャラ〟を自分で演じていたところがあります。

西山氏が、丹念な研究と理論で戦後の庶民の生活の基礎を作ろとしたのなら、黒川氏は、メディアという装置を使って高度経済成長以降の大衆に働きかけようとしたのかもしれません。

長い年月によって私の部屋の備え付けの家具はほとんど残っていませんが、カプセルには新たな価値が生まれています。スクラップアンドビルドしかない日本の都市開発の是非、交換可能というSDGsにつながる設計思想を考えるきっかけを与えてくれています。

それらを教えてくれたのは、カプセルの保存に関わる人たちで、最終的に私もオーナーとして参加することになりました。けっして〝お上〟からの指示で生まれたわけではない、カプセル保存の動きには、どこか西山氏の面影を感じてしまうのです。

写真は、西山夘三氏のライバルだった丹下健三氏設計のメタボリズム建築と言われる「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」

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