脱力の構え note87

 朝イチに、とりあえず、パソコンの前に座って、文章を書くことにした。

 ところが。

 「ここでもか」

 .......構えちゃうんだなあ、書くことに。

2週間前から、アレクサンダー・テクニークという体の使い方を学ぶための個人セッションを受けていて、そこでまず学ぶことというのが、自分の観察をすること。体だけではなく、感情や思考なども含めて、日々、自分を観察するって、かなり面倒である。

それ自体も、頑張らず、無理をしないで、気づいた時に、ちょっと意識して自分の心と体の状態を観察すると、いろんなことに気づいてくる。この気づきがもたらす自分の変化が何気にすごい。

武道でも、音楽でも、道を究めるためには、最初のアクションを踏み出す前のこの「脱力の構え」というのが、実はかなり重要だ。「構え」という言葉は、何となく、緊張するムードを想像させるが、それは「構え」という言葉の使い方なのかも知れない。気分はムサシ、とでもイメージして、脱力を意識してみる。

こんなプチ修行の毎日をロサンゼルスで送りながら、私の脳裏に浮かぶひとつの顔がある。つい最近、取り壊されてしまった東京芸大の寮に、若かりし頃、居候していて、その時に知り合った美奈ちゃんである。

芸大で、音楽の理論を勉強していた美奈ちゃんは、ピアノも上手な仙台出身の優秀な女子であった。ある日、何かのきっかけで、ピアノを教えてもらうことになって、寮の中にあるピアノの練習室に連れていってもらった。その時、鍵盤に手を置いた私に、「力抜いて、いしまる!」と、甲高い声で、美奈ちゃんは叫んだ。サリバン先生ばりのその厳しさに、美奈ちゃんが歩んできたピアノ道が、彼女のソバージュのおかっぱ頭の背中の後ろに、仙台からずっと続いているのが見えた気がした。私と言えば、その「力を抜く」という状態がまるっきりわからない。オルガンを幼稚園から小学校の最初まで習ったことがあるが、先生の家に友達と歩いて行くまでの田んぼ道で、おたまじゃくしや、ハスの実をとって遊んだこと以外、あまり記憶にない。

結局、ピアノの楽譜を読むこともなく、そのレッスンは、「力の抜き方がわかったら出直しておいで」ということで、中断した。サリバン美奈には妥協はなかった。

いつかその脱力の構えを習得しようという思いを心の隅に留めたまま、早30年が経った。やっとその機会が得られたのも、脱力が似合う年齢になったからかも知れない。東日本大震災で、数少ない東北出身の友人のひとりとして、消息が気になった美奈ちゃんにはまだ連絡が取れてない。今年は寒くなる予感のするロサンゼルスだが、今日は昨日より暖かくなるらしい。脱力にはいい天気だ。

脱力した手で、もう一度、サリバン美奈に、ピアノのレッスンを受けてるとこを妄想しする、ロサンゼルス、金曜日の朝。




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