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デジタル画は評価できない?

久しぶりの投稿です。

今回はいつものようなお寺レポートではなく、「デジタル画」の評価について自分の考えを整理するつもりで書いていこうと思います。

少し前、ある小学校の児童が修学旅行のしおりの表紙絵をデジタル画(ペンタブなど)で描き、提出したところ、「それはダメだ」と提出を却下されたという話を耳にしました。学校での図工や美術の授業ではあまり描くことがないデジタル画ですが、今や小学生でもパソコンやタブレットを使いデジタル画を描いている子は多くいます。

時代とともに表現の幅も広がっている描画方法において、デジタル画の位置を再確認したいと思い、記事を書いていきます。

(以下、デジタル画の対比として絵の具などで描かれた作品を「生身の作品」と表記する。)



1.デジタル画と生身の作品との違いの検討

デジタル画と生身の作品との大きな違いはその描写媒体である。デジタル画の描写媒体はパソコンやタブレットであるのに対し、生身の作品はカンバスや画用紙である。ここで考えられる問題点としては、タブレットを使うと「できないことができる」という認識が強く出てくることだと考えられる。例えば、円や直線を正確に描けたり、輪郭からはみ出さずに色を塗れる、配色も自由にできる、さらには描き間違えても戻ることもできる。

しかし、ここに本質的な違いがあるのだろうか。

「できないことができる」のはその描画材の特性であって、表現の本質ではない。自由な配色が可能と言うものの混色の概念はない、薄めるという行為も透過によることでしか行えない、油絵のように乾く速度を生かした繊細な表現もできない。これは描画材、描画媒体の特性であると考えた方が筋が通る。


2.美術史からの両者の違いを考察

私が考えるデジタル画と生身の作品の大きな違いは、人間の美意識に基づく永久性、非永久性の観点である。

美術史における不老不死の願い(神への憧れ)はレオナルド・ダ・ヴィンチの「神の視点から人間視点への転換」による「消失点」の創造と「透視図法」の登場から徐々に薄れ、ルネサンス期にはヒューマニズムと言う思想が誕生した。つまり、永遠の命に対しての憧れは薄れ、人間の死と向き合った活動がなされてきたという事である。

そこから見えてくる芸術に対する営みは、死を前提とした儚さ、いつかは消えてなくなることに惹かれる「美意識」に基づいているように私は考える。作家の寿命は必ずくる。同時に作品の寿命も存在する。朽ちである。朽ちるからこそ、その「区切り」に美しさを見出し、作品を残そうと修復を試みる。『最後の晩餐』は1970年代に修復が始まり、1999年に完了した。

そのような歴史がある中、デジタル画の存在は永遠の命をもった区切りのない作品であると言える。

ここにデジタル画と生身の作品の大きな違いがあると考えている。


3.デジタル画には美意識がないのか

デジタル画は言ってみれば「不老不死」である。一度完成したらデータが消滅しない限り、作者が亡くなったとしてもそこに残り続ける。

では、永久不滅のデジタル画には「美意識」がないのか、と言われてみればそうではない。時代の変化とともにその美意識も変化している。

情報社会の今日において、デジタル画を評価しないというのは情報社会の流れを受け止められていないのと同じである。現代美術アーティストである村上隆さんの制作風景を見てもわかるように現代美術においてデジタルが大いに関わっている。アートとサブカルチャーの境界線がほぼ無くなったアート界において、デジタル画であるから美意識がない、手描きの作品より劣っている、と言う話には決してならない。


4.評価という話になると

私がデジタル画がで評価しにくい観点として考えているのはそこに「コンテクストが見えにくくなっている。」と言うことである。「描く」「見栄え」など表面上のことに焦点を当てすぎるあまり、「なぜそれを描いたの?」と言う部分が見えにくく、また生徒にとっては全くない、と言うこともある。

デジタル画を描いている生徒に絵を見せてもらった時、「これどう?」と聞かれたことがある。「○○はどう思う?」と聞き返したところ判然としない返事が返ってきた。「なぜ描いた」と言う部分に理由はなく、タブレットの機能を使い、描きたいものを描いた、と言うものであった。自分の趣味や表現の一環としてのものであるならば全然構わないが”評価”と言う話になると、これは評価が難しい。

評価できるものには「ルールに則った表現」が必要である。現代美術においてもルールがあるが故に貨幣価値がつく、つかないの評価ができる。アートの世界で言うと、歴史的文脈における表現(コード)時代の流行(モード)である。

新学習指導要領では「指導と評価の一体化の必要性の明確化」がされており、一層「ルール(評価基準)に則った表現」が求められるが、これは表現に制限をかけると言うことではない。

学校教育での評価の話になると、そこにはまた「イラストレーション」と「絵画」の区別を生徒に説明する必要がある。「イラストレーション」は挿絵的なものであるのに対し、「絵画」はイラストレーションから脱し、独自の考えや意味をもったものだと考えている。デジタル画のほとんどが前者のイラストレーションにあたるため、評価がしにくくなっている。前述した修学旅行の表紙絵などには挿絵的な「イラストレーション」が合っているが、評価を前提にした作品制作だと「絵画」である必要がある。もちろん、デザイン分野で出てくるイラストはイラスト自体にコンテクストがなくとも、デザインそのものにコンテクストがはっきりしている場合、「イラストレーション」でも評価することができる。重視しているのはイラストではなく、デザインの内容、ということである。


そこで私が現段階で考えてるデジタル画の評価の基準は、

「そこに作者の思想、コンテクスト(文脈)はあるか、その表現がデジタル画である必要性はあるか、デジタルでしか表現できない技能(機能)を使用して制作しているか」

といったところである。

そもそも、美術作品は価値を数値化したり客観的な評価をすることが難しいものである。そのために、画商という方々が作品の価値をあげる努力をしている。その際の評価基準になるものは「基準としての作品の価格」「アーティストの思想」「美術史」などであるとのこと。

「感性の赴くままに評価」「頭ではわかるけど肌に合わない」と言うのは個人的な感覚であり、作品に普遍的な価値や評価を与えることができない。それを防ぐためにも「ルールに則った表現」が必要なのである。


5.難しいけど

まだ学校の授業ではデジタル画を制作しているところは少ないと聞く。

最近、「東京都高等学校文化祭 美術・工芸部門 第31回中央展」での奨励賞が話題になっているが、評価基準はわからないものの表面上の理由だけで選考から落とされない世界になってきたんだなと実感した。

そのため、デジタル画を頑張っている子が評価されにくいことも多くあるが、私は今、デジタル画を描いていてそれを周りの人に評価されない子がいるならば、「今、君が頑張っていることがこれからのアートを作っていくんだよ!!」と伝えていきたい。


おしまい。








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