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君に対するただひとつの心の叫びです シューマン《ピアノソナタ第1番》


前回の続き

楽譜を初めて出版した1831年、シューマンは、彼の創作に次いで重要な功績となった音楽評論活動の口火を切り、当時のドイツではほとんど知られていなかったフレデリック・ショパンの天才を見抜いて評論文を書き、これによってショパンの名はドイツ国内で広く知られるようになりました。

そして1833年頃には、シューマンは作曲においても評論においても次第にその頭角を現してきていました。またこの頃、次第に彼の心を占めるようになっていた14歳のクララの姿を、母親への手紙の中で生き生きと描写しています。

「いつも私に好意を寄せてくれるクララは、
今でも昔と変わらず活発です。
僕たちはほとんど毎日2,3時間、行進するように散歩します。
先日私は、彼女が独り言のように
『ああ、私はなんて幸せなんでしょう!なんて幸せなんでしょう!』と
言っているのを聞きました。
そんな言葉を聞いて喜ばない人はいないでしょう!
同じ道で、歩道の真ん中に全く不要の石がいくつも置いてありました。
私が話しながら歩く時には、大抵下よりも上を向いているので、
彼女は石があるごとに私がつまづいて倒れないよう、
後ろからそっと上着を引っ張ります。
一度は彼女が石につまづいて転んでしまいました。」

ふみくら書房『シューマン愛と苦悩の生涯』



また、風邪をひいてクララに会えない時には、「心を通わせる案」として、同じ日の同じ時刻に、ショパンの同じ曲を弾いて、同時にお互いを強く思う、というお願いの手紙を書き、クララもまたそれを喜んで受けました。

そしてこの年の8月、クララは自作の《ロマンスと変奏曲》作品3をシューマンに献呈し、シューマンはお礼の手紙でこう書いています。

「私がこのような栄誉に価するでしょうか?よくご考慮されたのでしょうか?
もしあなたがここにいらしたら、表紙に私たちの名前が並んで描かれているということが、将来において、私たちの意見と理想が同じであってほしいという希望につらなるということについて、何か話したことでしょう。
哀れな私は、これ以上のことは申し上げることができません。」

ふみくら書房 『シューマン 愛と苦悩の生涯』


シューマンはすぐにこの曲のメロディを自作のバス主題と結びつけて《クララ・ヴィークの主題による10の即興曲》作品5を作曲し、彼女の父ヴィークに献呈しました。

シューマンの才能は認めつつも、クララには富と地位のある相手との結婚を望んでいたクララの父ヴィークは、翌年1834年、二人の親しさを警戒し、音楽理論と声楽を学ばせるということでクララをドレスデンへ行かせた後、さらに長い演奏旅行へと連れ出したのでした。

1835年の4月にクララがようやくライプチヒの自宅に戻ると、最初に訪ねてきたのはシューマンでした。その時のことをシューマンは後にクララへの手紙で書き送っています。

「私は今でも演奏旅行後
はじめてあなたにお会いした時のことを覚えています。
あなたはずっと背が高くなり、取りすましているようだった。
あなたはもう、私と一緒に遊んだり笑ったりするような
子供ではなかったのです。
あなたは思慮深く話し、
瞳の中には深い愛の光を宿していられるようだった。」

『シューマン 愛と苦悩の生涯』


そして、また長い演奏旅行に出かけることになっていた日の前夜、ヴィーク家を訪れていたシューマンは、階段まで見送りにきていたクララを抱きしめ、二人は初めてのキスを交わし、恋人となったのでした。

しかし、翌年の1836年1月、ヴィークはクララをシューマンから引き離すため、再び彼女をドレスデンに送り、シューマンに会うことも手紙を出すことも禁じました。そして社交と演奏会によってシューマンを忘れさせようとしました。

さらにこの年の2月、シューマンの母親が亡くなり、シューマンは重ねて精神的に大きな打撃を受けました。そして、ヴィークが数日留守にするという知らせを受けて、シューマンは密かにクララに会いに行き、ようやく心の平静を取り戻すことができたのでした。

「今日は色々なことがあって忙しい1日でした。
母の遺言状の開封、臨終の時の話。
しかしこれらの全ての暗闇の背後には、
あなたの輝かしい姿が見えていたので、
私は全てのことをそれほど苦しまずに耐えることができました。
考えなくてはならないこと、
困難を取り除かなければならないことが沢山ありますが、
私たちは運命によって一つになるべく定められているのです。
私が言葉にできないほどあなたを愛していることを知ってください。」

『シューマン 愛と苦悩の生涯』


ヴィークは留守中にシューマンが訪ねてきたことを知って腹を立て、今度シューマンが現れたら射殺するとまで言ってクララを脅し、シューマンからの手紙を全て返すよう命じました。

その後、クララは演奏旅行からライプチヒに戻りましたが、二人は同じ街に住みながら、会うことが許されない苦しい生活を送らなければなりませんでした。

1837年の年が明ける頃には、シューマンの焦りはいよいよ激しくなっていました。彼はこの頃のことを後のクララあての手紙にこう書いて送っています。

「あの頃は私たちは他人となっていたに違いありません。
私は諦めてしまっていたのでした。
するとまた古い傷口が破れてくるのです。
私は手を握りしめ、夜な夜な神に祈りました。
『私の気が狂わないように、このことに耐え通させてください。』と。
ある時は、あなたの婚約の記事を新聞で見ることを想像しました。
そして私は床に身体を打ちつけて声をあげて叫びました。」

『シューマン 愛と苦悩の生涯』


1837年のこの頃、シューマンは出版されたばかりの《ピアノ・ソナタ第1番》をクララのもとに送りましたが、クララは簡単な受け取り状を書いただけで、しかもその後、シューマンからの手紙の束を送り返し、クララからの手紙も返すよう要求してきたのです。それは父ヴィークの命令だということは、シューマンにも予想がつきましたが、このことで彼はさらに苦しみました。

夏になると、この状況を打破するためにクララは共通の知人を頼り、シューマンにこの春送り返した手紙の束を再び返してくれるよう頼みました。シューマンは、それよりも新しい手紙を書きましょうと約束したのでした。

そして8月、クララは2年ぶりに演奏会を開き、シューマンの作品二つをプログラムに加えました。そのうちの一つは、先にシューマンから送られた《ピアノ・ソナタ第1番》でした。シューマンが『君に対するただひとつの心の叫び』と書いたこの作品。演奏会に招待されたシューマンは、クララの演奏によってその「叫びへのこだま」を聞いたのでした。


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