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手のひらを太陽に

私は小さく傷つかないと文章が書けない人間なんだな~と気付いてしばらく時間が経ったけど、こんなにも露骨に書けなくなったり、書きたくなったりするとは思わなかった。

過去に同級生から受けた暴力を忘れきれないとか、周りに前例がない中でピルを飲み始めるか悩んだりとか。今までの私が勝手に書いたものは大なり小なり全部そういうきっかけで書いた文章ばかりで、変化の渦中から外に向けてキリキリと手を伸ばすような、そういう行為が私にとって文章を書くということなんだということを、ひしひしと感じている。

変化を抜けて穏やかな場所にたどり着くと、私の指はピタッと止まってしまって、せいぜい3行程度の下書きが数か月に1回このアカウントのバックヤードに放り込まれるだけになる。
大学生活の後半は比較的そういう時期が続いて、もう私は文章とかどうでもよくなってしまったのか?いやそんなはずはないな…などと考えていて、あ~そうか…小さい傷がトリガーなのか、と気が付いた。傷口があまりにも生々しく大きすぎると、それはそれで文章どころではなくなってしまう。あくまで小さな、中古品だったら「ほぼ新品」「良品」などと書かれるくらいの傷。それに気づいて私は、安心して文章を忘れて過ごすようになった。

そしてそして。この春で学生から社会人になってみて、案の定、文章を書きたい気持ちは何も言わずとも私のところに戻ってきた。おかえり~。

今の私は見事に5月病というか、息をついてうっすらと首を垂れた状態になっている。

でも少し難しいのは、「仕事が嫌だ~」で済むものでもなさそうな気がしているところだ。むしろ働くのは嫌いじゃないし、職場にいる人はみんな素敵な人ばかりで、環境も恵まれてて、まあ仕事は慣れないけど絶対にこれからの自分にプラスになるから頑張るぞって本心から思っている。つまり仕事を休めばどうにかなるものでもなさそうなのである。

なんか、仕事をしているときの自分を、もう一人の自分が机の下からジト…と見つめているような、そんでもってその目がいかにも私にうんざりしているような感覚がある。
職場の人は誰もひどいことを言ってこないけど、ほかの誰でもない自分がそんな調子なので、見られている側の私はなんだかじんわりと疲れてしまう。

ジト目側の私からすると、職場にいる私が発する一言一言はどうにも軽薄な感じがする。それがすごく鬱陶しくて、反抗するようにわざと仕事の日にお気に入りの派手なアイシャドウをつけたり、昔から好きな曲を聴いたりして、私が1か月前と変わらず私であることを実感しては安心している。
手のひらを太陽に透かしてみて、あ~私の血潮の色は今までとおんなじで真っ赤だ…よかったよかった…と逐一確認しているような。血の色が1か月で変わるはずがないのに。

自分にとって目の前の仕事がどんな意味を持つのかをちゃんと咀嚼した言葉で腹落ちさせたり、職場の人たちにとってどれだけ心を開いていけるか模索してみたり、そういうことをまだちゃんとできていない、焦りなのだと思う。完璧主義な自分の視線は、入社1か月目の自分にも容赦なく注がれる。

ま、そういうこともあるよね~。やっぱり慣れだよ、慣れ!

と、最近よく言ってもらうことが多いのだけれど、慣れるまでのこのしんどさを、世の中のみんなはどう乗り切ってるんだろう。休みの日にお酒を飲んでも、大切な人に会っても、歌を歌っても、私は机の下のジト目を忘れることが出来なくて、なんだかモヤモヤグズグズポヨポヨしたままGW3日目を迎えようとしてしまっている。手のひらを太陽に透かしたときに、「みんなみんな生きているんだ友達なんだ」と真っ先に思えるメンタリティに今すぐなりたいのに。

でも、これを書く前よりは少し喉の奥のつかえが小さくなったような感じがする。次の穏やかな場所に着く前に、時々こうやって指を動かして、少しずつ荷を下ろして、大の字で寝そべれるようになるのを、私は気長に待てるんだろうか。それまで少しでも楽しく過ごすにはどうするか、まだ考える必要がありそうだ。


スキすると鹿の子の無責任占いがついてきます