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罪を憎んで人を憎まず?

罪を憎んで人を憎まず、という言葉があるが、そんな風にひとりの人間を罪と人に分離できるものだろうか。

動物の行動で罪に相当するものはないだろう。イルカの集団にもいじめはあるなどとも言われるが、それを罪と捉える人はいないと思う。
罪は人に固有のもので、人らしい概念的なものとも言える。
骨と肉の身体に巣食った脂肪のようでもあり、ベニスの商人で肉は切っても血は流すなといったような、そこだけ取り出すのは不可能な、その人の一部なのではないだろうか。

加害者が人格を形成していく幼少期に不幸な境遇にあったとして、それが罪に結びついたのなら、ますます罪はその人となりを表すものとなりもうそれだけを剥がすことはできないと思う。

それなら罪を憎んで人も憎め、というのではなく、罪を憎むというところがちょっと違うのではないかと考える。

罪を憎んで人を憎まず、という言葉はどちらかといえば被害者を守ろうとするもので、できるだけ憎しみというネガティブな心のありようを減らそうということにも受け取れる。憎しみを抱くことはそれ自体、善悪に分ければ悪に分類される。被害者なのに。

怒る、嫌う、恨む、などと比較しても「憎む」の危うさは際立っている。憎しみは明らかにその気持ちを抱いている本人を蝕む。

加害してくる相手に対して有効な手立ては、まず距離を取ることと言われるが、親から子への虐待などそうもいかないこともある。

罪を憎んで人を憎まず、の精神でいくと、優しい時もある、とか、良かれと思って、とかその人のいいところを見つけようとしてしまう。しかし罪と人はやはり一体であり、罪を切り離して人だけ好きになることはできない。

憎むというネガティヴな感情に被害者が苦しまないためには、罪と人を分けず全人格を「嫌う」ということでいいのではないだろうか。
「憎む」は自分の意志ではなく加害者から思い込まされた感情、「嫌う」は自分の意志で能動的に思う感情。
「嫌う」には距離を取る意味合いもある。

罪が嫌いで人も嫌い。笑って話してても俺はお前が嫌い。無理に好きにならなくていい。そう考えたら憎しみに囚われなくて済むかもしれない。



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