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“おじろく・おばさ”について長野県民が論文を読みつつ考えてみた 

悪しき因習としてネット上で有名な“おじろく・おばさ”について、長野県民が実際に論文を取り寄せて調べてみました。

この記事は最後まで無料で読めます。

なぜ調べようとしたのか、その動機や、長野県の地理的特色などをまとめたものが、前回の記事となります。


1. “おじろく・おばさ”は誇張されているのではないか?

1.1. 調べることになった発端

ネットロア(インターネットの都市伝説)やオカルト系サイトで有名な「おじろく・おばさ」ですが、それについてのしっかりとした論文があるということから、“実在した忌まわしい因習”として時々ネットにて話題になります。

正直、長野県民として微妙な気持ちでしたが、論文があるのだから本当なのだろうとぼんやり思っていました。しかし、最近その論文自体に疑問を呈する動画を発見しました。

簡単に動画の内容を要約します。

・「おじろく・おばさ」は1960年代に書かれた2つの論文、①水野都沚生著「『おじろく・おばサ』の調査と研究」(1962)と、②近藤廉治著「未文化社会のアウトサイダー」(1964)がソースであり、ネットでは、センセーショナルな内容の②がよく引用される。

・②の近藤論文はインタビュー対象に鎮静剤(アミタール)を服用させ、脳機能低下状態にさせてからの会話を基にしている為、信憑性に欠ける。

・①の水野論文も、論文が書かれた60年代を席巻していたカウンターカルチャーの影響を強く受けており、閉鎖的なムラ社会における家父長制下での悪しき習慣、という結論ありきで書かれている。

1.2. 長野県出身だが今まで聞いたことがなかった

私の出身地と旧神原村との位置関係

先述したとおり、私も、“おじろく・おばさ”があったといわれる長野県で生まれ育ちましたが、上の画像を見ていただければわかるように、同じ長野県といっても、距離的にも文化的にも離れている為(道のりにして約160km)、ネットで知るまでこの因習について、全く聞いた事がなかったというのが実情です。

以上のことから、実際に論文を取り寄せて、自分で調べてみることにしました。

2. 二つの論文を実際に読んでみる

上記したように、「おじろく・おばさ」について書かれた論文は二つあります。

・民族学的な観点から調査した水野都沚生著「『おじろく・おばサ』の調査と研究」(1962)

・精神医学的な観点から調査した近藤廉治著「未文化社会のアウトサイダー」(1964)

上記二つを取り寄せることにしました。

3. 近藤廉治著「未文化社会のアウトサイダー」

3.1. ネットロア(ネット上の都市伝説)としての「おじろく・おばさ」の下地となった論文

これは精神科医である近藤廉治氏の論文です。こちらのサイトより購入しました。

1964年に、“おじろく・おばさ”について、現地に赴き、精神医学の見地から調査した結果が書かれています。オカルトサイトなどで“おじろく・おばさ”が取り上げられる際には、この「未文化社会のアウトサイダー」から多くの情報が引用されています。

長野県下伊那郡天竜村(飯田の近く)では、16-17世紀ごろから長兄だけが結婚して社会生活を営むが他の同胞は他家に養子になつたり嫁いだりしない限り結婚も許されず、世間との交流も禁じられ、一生涯戸主のために無報酬で働かされ、男は「おじろく」、女は「おばさ」と呼ばれた。家庭内の地位は戸主の妻子以下で、宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と書き込まれていた。

近藤, 1964, p.11

上記のような書き出しからはじまり、次に以下のような村の古老の証言を載せます。

a)自分は10人のおじろく、おばさを知つていた。幼児から集まりに出ることもなく近所の人との交流もなく、独りで家の仕事をしていた。家人とろくに話もしなかったが、反抗することもなかった。時には山の中にタバコの密培などをして小遣銭を得た者もあった。
(中略)
b)数人のおじろくを知つていたが、結婚もせず一生家族のために働いて不幸もなかった。子供の頃は普通であったが、20歳過ぎから無愛想な人間になり、その家へ用事で行くと奥へ隠れてしまうのもあり、挨拶しても見向きもしないで、勝手に仕事をしているものもあり、話しかけても返事もしなかった。
(中略)
c)私の知つていた何人かのおじろくは黙つていて、笑うこともなく、いつも家の仕事をしており、怒ることも不平をいうこともなく、表情もなく、趣味もなかった。
d)自分の弟は器用なおじろくでよく働いていたが、いいつけたことはよくやるだけで、自分で気をきかせる事はなかつた。若い時から人嫌いになってきて、人が来ると奥へ隠れ、ほとんど喋らず、不平もいわなかった。身のまわりの事はきちんとしていた。娯楽を求めるということもなかった。

近藤, 1964, p.11

さらに、現存するおじろくとおばさ三名について、アミタールを用いたインタビュー(アミタール面接)を行い、彼らの心境を聞き出しています。これについては、オカルトサイトなどでよく取り上げられている為に、ご存じの方も多いと思います。

以下に要点をまとめます。

症例 a. 女性. 明治34年生まれ.
精神病の負因(遺伝子上の要因)はない。高血圧以外の身体的異常はなし。幼少期は素直で大人しかったが無愛想で無口でもあった。24才まで部落の養蚕の手伝いに行くことがあったが、その後は頼まれても行かなくなった。論文の著者が挨拶しても、反応せずに素知らぬ顔をしていた。家人とも話をしないが、素直に働いていた。アミタール面接をすると、自分の境遇を語り始めた。人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だという。自分の家が一番よいし、とくに今の境遇に不平はない。姉が亡くなった時も悲しくなかったし涙も流さなかった。死んだ人はおっかなくて汚いと思った。
症例 b. 男性. 明治20年生まれ.
精神病の負因なし。身体的異常なし。小学生の時はおとなしい几帳面な性格だった。18〜20才で大工仕事を習い、大工仕事や畑仕事を根気良く今までやり続けた。村を出たのは、21才の時の徴兵検査のみである。論文の著者が挨拶しても見向きもしない。勝手にタバコを吸ったり茶を飲んだり横になったり無遠慮である。アミタールを用いれば簡単な応答はする。今まで楽しいこともなく、女遊びもせず村から出てみようとも思わなかった。新聞も読まず娯楽といったらラジオの浪花節を聞くくらいである。世の中を嫌と思ったこともなく、希望も不満もない。
症例 c. 男性. 明治16年生まれ.
精神病の負因子なし。身体的異常なし。幼少期は素直で陽気であった。弟2人もおじろくであったが2人は学校に行った。長兄が病弱であったため、一家の大黒柱として働いてきた。おじろく特有の閉ざされた生活をしてきたわけではないため、純粋なおじろくではない。人に会うことを嫌がらす挨拶もする。アミタール面接の必要はない。村の外に出て遊郭に2回行ったことがあるが楽しかった。昔はおじろくが沢山いた。夜這いをしたおじろくはいたが、皆からよくいわれなかった。結婚のことは、自分はおじろくなので全く考えなかった。おじろきは嫁を貰わないものと昔から決まっていた。兄が弱かったため、よそへでていけば家が滅びてしまう為、外へ出ていくことは考えなかった。世の中、嫌なこともないし楽しいこともない。ラジオで浪花節を聞くくらいである。

3.2. 近藤氏の結論


著者は本人たちのインタビューや、古老達からの聞き取りから、おじろくやおばさは、幼児期に特別甘やかされたり、逆に愛情の無い育て方をされたこともないとしています。子供の頃に兄に従うものだという躾を受ける位で、特別変わった扱いをされたわけではないとのことです。

当初は、この部落に分裂病(統合失調症の負因が多い為に、かかる疎外者たちも分裂病ではないかと思ったそうですが、家系を調べてもそのようなことがなかったと述べています。

山村に残る因習に縛られて、二男、三男はこうあるべきだと言う観念から脱することができなかつたことによるとしか思えない。日本古来の身分の差の打破を長いこと、考えようともしなかつたのと同じ道理が働いていたとしか思えない。

近藤, 1964, p.14

その為、著者は“おじろく・おばさ”について、上記のように結論づけます。

このように、精神科医が直接調査に行き、鎮静剤を用いて当人にインタビューをし、それを論文にまとめてあるということで、この「おじろく・おらばさ」は実在した因習として、オカルトサイトなどでよく取り上げられます。この近藤論文はその下地になったといえるでしょう。

ここからは、この論文にどれほどの信憑性があるのかを考えていきたいと思います。

3.3. アミタール面接の信憑性

そもそも、アミタールを使用して得られた情報に信憑性がどれほどあるのでしょうか?

上記のサイトでは、マイケルジャクソンの性的虐待疑惑について取り上げていますが、その中でアミタール面接について、以下のように述べています。

・アミタール面接で患者(原告)の話す内容は、正確性に欠ける。
・アミタール面接中は、質問者の暗示にかかりやすい。つまり質問者によって虚偽の出来事が頭に植え込まれ、目覚めた後もそれを信じてしまう可能性がある。

August Pier Jr.が1993年に発表した論文では、1930年から1993年までに行われた、アミタール面接に関する12回の研究が検証されました。
その結果、12回の研究全てがアミタールを「自白剤」として使用することを否定していました。

自白剤として使えないどころか、アミタールの投与後は面接者の暗示にかかりやすく、虚偽の内容を話すことがある。(性的虐待などに関する)裁判の証拠として用いるべきでないと結論づけています。
参照 Piper, A. (1993). “Truth Serum” and “Recovered Memories” of Sexual Abuse: A Review of the Evidence. The Journal of Psychiatry & Law, 21(4), 447–471.

引用元 : マイケル大使館 https://maikeru.info/archives/1305


そして、米国ではアミタールにより虚偽記憶を植え付けられた人の証言による冤罪が多発したこともあり、アミタールを用いた回復記憶療法は現在行われていないそうです。

以上のことから、近藤論文におけるアミタールを使用して得られた、“おじろく”と“おばさ”の証言の信憑性については疑問符がつくのです。

3.4. “個性”の範囲内なのではないのか?

近藤氏は“おじろく”や“おばさ”とされる人々について、「分裂病に非常によく似た点を持つている。感情が鈍く、無関心で、無口で人ぎらいで、自発性も少ない。しかし分裂病ほどものぐさではない」(近藤, 1964, p.14)としています。

個人的な感想としては、内向的で人嫌いなだけの人のような感じがします。“個性”の範囲内にとどまるものではないでしょうか?

さらに近藤氏は、「こんなみじめな世界にくすぶつているより広い天地を見つけて行こうと志すものが稀なのは不思議であるが」(近藤, 1964, p.14)と続けます。ここを読んで思ったのですが、そもそも近藤氏は、“若者は田舎で一生を終えるより都会に絶対に出るべきなのだ”という価値観で“おじろく”や“おばさ”を見ているような気がするのです。

だからこそ、論文の考察の項にて、「まことにつまらないアウトサイダーであり、ただ精神分裂病的人間に共通するところがあるという点で興味があるだけである」(近藤, 1964, p.14)と述べているのではないかと思います。

続いては、この近藤論文が出された二年前である、1962年に書かれた水野都沚生著「『おじろく・おばサ』の調査と研究」について考察していこうと思います。

4. 水野都沚生著「『おじろく・おばサ』の調査と研究」について

水野都沚生著「『おじろく・おばサ』の調査と研究」は1962年に書かれています。論文についてはこちらから取り寄せました。

4.1. 水野氏が調査するに至った動機

著者がいうには、この「おじろく・おばさ」は、まず地方紙である、信濃毎日新聞が紙面を割いて報道したことに端を発し、それから信越放送のテレビやラジオでも取り上げれたことにより、有名になったそうです。

しかし、それは所謂大衆にアピールする、さわりだけが部分的に報道されたに過ぎないため、民俗の上でこれを取り上げて、少しでも学的立場で調査と検討してみたいと思ったからだ、と著者は「おじろく・おばさ」について調査する動機を述べています。

4.2. “おじろく・おばさ”は昔の日本においても特殊な制度だった

全国的に存在した古い農業形態の必要悪であったと説く人もあるが、果たして全国的にいたるところにあったか、ということになると、私はそうではないと主張したい。ただ、その条件が、ちょうど適合する地勢とか、土地柄のところにだけ、やむなく発生したいわゆる農奴制度であって、それも制度として押付けられるものでなく、動きが取れなくて、自然の環境として形付けられた、悲惨な制度であったのであり、それも鳥取・島根の一部、岩手・青森・秋田の一部、或いは信州の一部等に行われたものだったと思われる。

水野, 1962, p.81

著者は、「おじろく・おばさ」は全国的にあった制度ではなく、限定的な土地において、上から押し付けられたものでもなく、自然発生的におこったもであると述べます。そして、それは一律に悲惨なものであったと主張するのです。

しかし、論文を読んでいくと、本当にそうなのか首を傾げざるをえなくなります。下の「おじろくの食事事情」の項でも書きましたが、“おじろく・おばさ”だけが大変な生活であったのか、昔の神原村の村民全体が、大変な生活をしていたのか分かりづらく、混同されているように見受けられるのです。

4.3. 村の古老からのインタビューにより聞き出した、おじろくとおばさの実態〜彼らは村から出ることが許されなかったのか?〜

村の古老からのインタビューによれば、天竜川の東、東山村(現信濃村)の和田にもこの形態があったそうです。

「徳川のころから明治にかけて、分家することを田わけと言って、分家をすれば、却って本家が潰れてしまうとか、共倒れになるとか言って分家することを嫌う風潮があった。昔は、里には、“株”の数の制限があって、容易に増すことができなかった。分家の場合の条件は、普通には家・屋敷を分与する程度で、田畑などは与えないため、やむなく里畑作りや、預かり畑を耕作するという。当人の腕1本で生活を立てるより、ほか道がなく、本家でも面倒みてやる余裕に乏しかったようだ。この地方では“おじぼうず”と呼び、“福の神”とも綽名したが、多くの“おじろく”は比較的に気力に乏しい連中で、うとい(愚図)性質のものだった。中には、気力の勝った者もいて、好いた女と手をとって、他郷へ出るものもいた。」と語っている。

水野, 1962, p.89

古老の証言によれば、“おじろく・おばさ”の中には、好きな者と一緒に村を出る者もいたそうです。さらに別の部落の知識人である老人は、村を出て他郷へ行く“おじろく・おばさ”の処遇についてこう語ります。

そうした身分の男女が、手に手を取り合って逃亡すれば「くっつき合った」とか「ねつきあつた」などと評して、けなしたくらいなもので、出先を追求することもなかった。

水野, 1962,  p.92

どうやら、追跡してまで逃亡を防止するなどの対策はしていなかったようです。

4.4. 史料からみる“おじろく・おばさ”〜彼らは「厄介」だったのか?〜

近藤論文の冒頭において“おじろく・おばさ”は、「家庭内の地位は戸主の妻子以下で、宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と書き込まれていた」(近藤, 1964, p.11)と書かれています。

「厄介」は他人に迷惑をかける人や 、世話のやける人を意味します。したがって、上の文を読む限りでは、“おじろく・おばさ”は疎外され、虐げられていた人々であるという印象をより強く与えます。実際、オカルトサイトなどでは、近藤論文のこの一文は必ずといっていいほど取り上げられています。

しかし、近藤論文ではその一文以外に、それを裏付けるような、村の古老の証言などはありませんでしたし、水野論文にも、おじろくやおばさが「厄介」とされていた、というようなことは書かれていません。

水野氏は、狭い範囲で観た記録でしかないとしつつ、神原村字宇福島部落の旧御館の福島正良氏の所有する、文政九年(1826)につくられた宗門人別改帳(現在でいう戸籍原簿や租税台帳)と明治五年の壬申戸籍(日本初の全国的な戸籍)を閲覧できたようで、その写真を論文内に載せています。そこで“おじろく・おばさ”がどのような扱いであったかを見ていきたいと思います。

まずは、江戸時代の宗門人別改帳です。

水野論文に載っている宗門人別帳(江戸時代中期に作成された戸籍や租税台帳の役割を果たしていた帳面)。

長兄と子供以外は、叔父、叔母と記入されていた、としています。確かに長兄よりも立場が下であったことは事実のようですが、「厄介」とは書かれていなかったようです。

次に明治五年につくられた、日本初の全国的な戸籍である、壬申戸籍を見てみます。

赤い丸で囲った部分に平松政七と書かれている。

こちらは、後に紹介する、1962年において現存した“おじろく”である平松政七氏の戸籍です。少し字が薄く読みにくいですが、二男として戸籍に登録されています。こちらにも「厄介」とは書かれていません。

以上のことから、近藤論文内にある“おじろく・おばさ”は宗門別帳や戸籍簿には「厄介」と書き込まれていた、という記述には疑問符がつくのです。

4.5. 現存の“おじろく・おばさ”

まず水野氏は。論文において、おじろくとおばさの割合については、このように述べています。

「女に廃れ者なし」の諺通り、よほどでない限り、女は妻となり、妾となりして、母の座に坐ることなので、やはり、おばサの境涯で世を送る人はおじろくに較べると遥かに少なかったようであるが、それでも、おばサとしての身分で過ごした人が割合にいたようである。

水野, 1962, p.82

おじさに比べておばさは少なかった、としています。

そして、1962年に天龍村の福島部落において、“おじろく・おばサ”の境涯で余生を送っている老人は、林今朝芳氏(81)とその弟の留良氏(75)隣家の平松政七氏(78)そして、村松ゆう氏(55)の男3人、女1人の合計4名いる、としています。

さらに、“おばさ”である村松ゆう氏については、このように説明しています。

村松ゆうさん(五五)については、部落の人から聞いたことだけに止めることにする。というのは、「兄正義さんの厄介になっている純粋の「おばサ」であるが、おばサにありがちなこととでも云うべきなのか、娘さんを1人産んでいるのである。大体その父親もわかってはいるが、ともに角結婚していないのだから」と人々が云っている。

水野, 1962, p.89

このように、おばさにありがちなことで子供を産んでいる、とのことで、これ以上言及はされていません。その為にこの論文では、必然的に“おじろく”の調査が大部分を占めます。

4.6. “おじろく”へのインタビュー

論文には、“おじろく”である、林今朝芳氏とその実弟である留良氏、そして隣家に住む平松政七氏との対談が載っています。

林今朝芳氏と留良氏は兄である林直一氏の家に住んでいたそうです。まず著者は林家に訪れました。そして、その時の状況を下記のように記述します。

私が林家を訪れた時、ばったり顔合わせたのは、今朝芳さんだった。今朝芳さんは、挨拶の声にも応えず、すごく引っ込んでしまったので、私は外にいた直一氏を探して、おじろくの一般論を聞いた。
二度目に訪れた時は、直一さんとその妻と二人のおじろくの四人の老人が、大きな燻んだ囲炉裏を中心に、一人は膝を抱えて背を丸めてをり、一人は斜めに横たわって居り、直一さん夫婦は向かい合って、いぶる煙に目をショボ/\させて、ジツと一点をみつめていた。
何れも七十五才を過ぎた老人が、黒ずんだ茶の間で沈黙を続けている雰囲気に接して、私は一種の異様感を覚えたものだった。

水野, 1962, p.87

今朝芳氏は著者のインタビューに答えることなく奥の部屋に行ってしまったそうですが、留良氏は幾分か応答してくれたそうです。さらに、長男である直一氏の語ってくれた過去とを統合すると以下のようなことが分かったそうです。

・今朝芳氏は生来虚弱であった為、気ままに過ごしてきたが、時に山に入って伐採や草刈り等の仕事をしていた。

・その弟の留良氏は子供の頃、大工に弟子入りして手に職をつけているので、この家の戸棚等を作ったり、部落の注文でタンスなども作ったことがある。

・父親が、弟たちに「嫁をもらえ」と勧めた事は一度もなかったし、長男である直一氏も言ったことがない。

・一度養子の口はあったが「行く」と言わなかったとのこと。

・「女が欲しいと思ったことはないか」と著者が聞いたが、留良氏は聞こえないような顔して、黙っていた。

・二人は徴兵検査を受けに出かけた以外に部落から一度も出たことがないし、部落の祭礼や、巡回映画界でも、顔を出したことがない。

最後に、「今まで生きてきて、どんなことが一番楽しかったか?」という著者の問いかけに「何にもなかった」と留良氏は答えます。著者はそれを受けて、彼らを「社会のない人生」の人達である、と評します。


次にもう一人の“おじろく”である平松政七氏にインタビューをしますが、彼については、上の二人に比べて、とくにコミュニケーションに難がある、ということはないようです。

著者は平松氏について、長年の労働による肉体の酷使による為か、右足膝関節の神経痛は重いらしい、としながらも、胸板が厚く広く、肩幅も広く立派で頑丈なものだ、とその外見を述べています。そして眼も耳もしっかりしているとのことです。

平松政七さんは、昨年の5月から、右足膝関節の神経痛で患らって寝たり起きたりしながら、家の中をざっと歩いているが、両眼も両耳も達者で、いたって、朗らかに過去を語って呉た。現在、物故した甥の未亡人春子さん(五一)とその子3人の5人暮らし、「おじいま」と呼ばれて、気儘な毎日を送っているが、政七さんは十四歳の時に父を亡くし、兄は健康がすぐれなかったので、弟の今朝直(三十五年おじろくのまま死亡)と二人で一家の生活を支える運命を担ったという。

水野, 1962, p.88

平松政七氏の境遇を以下にまとめます。

・十四歳の時に父を亡くし、兄は健康がすぐれなかったので、弟である今朝直氏(三五年におじろくのまま死亡)と二人で一家の生活を支えてきた。朝早くから夜遅くなるまで働き、さらに夜なべもした。

・食事は麦七分米三分の飯と、一食はさつま芋かジャガイモでおやつも芋が多く、弁当に生味噌がつくのが贅沢であった。

・今も、子供達が「オジイチャ、おいしいから買ってきた」と刺身などを持ってきても、ちっとも美味いと感じない。生味噌の方が美味い、とのこと。

・旧御館(領主)の福島正良さんが、政七さんを誘って、飯田の遊郭に二度登楼したそうだが、平松氏は夜通し騒いでいて、本人曰く、「いや面白かったのなんの」とその時のことを語った。

4.7. おじろく”の食事事情〜人より粗食だったのか?〜

平松氏は、食事は麦七分米三分の飯と、一食はさつま芋かジャガイモでおやつも芋が多く、弁当に生味噌がつくのが贅沢であったと証言しています。ネットで流布している情報では、おじろくやおばさは、長男とその家族よりも粗末な食事を与えられていた、とされていますが、これを裏付ける証言はありませんでした。

そして、長男とその家族の食事がどのようなものかわからない為、平松氏の言う麦七分米三分の飯が、一般の村人より粗食なのかも判断できません。ただし、平松氏の子供の頃の食事はどうであったかのインタビューの記載があります。

問い おじいさんの子供の頃の生活はどうだったか。
答え 貧乏で貧乏で、話にならなんだ。朝は囲炉裡の鍋の芋をたべ、昼は、藷の残りとソバ粉掻きやウドン、夜食は、ヒエ、アワ、麦などの雑炊だった。又秋には大根雑炊、手間雑炊だった。ウラーが弟と家をやるようになってから、麦七、米三の飯がくえるようになったもんだ。

水野, 1962, p.91

平松氏の話し方からすると、子供の頃は、家族全員が同じものを食べていたように受け取れます。そして、おじろくとして働き始めてから食べられるようになった米三麦七の飯についても、家族全員がそれを食べれるようになったと解釈できます。おじろくである平松氏だけ、特別粗末な食事を与えられていたようには見受けられません。

そもそも、おじろくやおばさの食事が、長男家族に比べて粗末であったのならば、それについて詳しく論文に書かれてあってもよさそうなものです。それがないということは、長男家族と同じものを食べていた可能性が高いのではないでしょうか?

4.8. 芸能の立役者としての“おじろく”

また、福島部落の隣にある和合村にも、“おじろく”である大石歌松氏(七七)がいたそうですが、調査する一年前に亡くなったそうです。彼は大石家の「福の神」として黙々と働き続け、仕事で得た収入を、いつも肌身離さず、胴巻に入れていたそうです。ある日その紙幣が水で濡れた際には、外で一枚一枚乾かしていました。それを見つけた子供がそれは何かと尋ねると、大石氏は「こりやナ、セツメの絵エ(これはメンコだよ)」と、とぼけて答えたそうです。

そして大石歌松氏は、無形文化財指定の和合村念仏盆踊りの先達として、高張提灯を持って先頭に立つ重要な役割を勤めた人でもあったそうです。そして、前述の平松氏も、神原村福島部落の伝統の芸能である獅子舞の立役者であり最後の師匠でありました。著者はこれについて、複数の“おじろく”が芸能に通じていた点に偶然の一致かもしれないが面白いものを感じる、と述べています。

4.9. “おじろくとおばさ”の性事情

近藤論文では、おじろくとおばさは性欲がほとんど無く、おじろくがおばさに夜這いをかけることも少なかったように書かれていますが、こちらの水野論文では、また違った“おじろく・おばさ”の性事情が書かれています。

著者は、おじろくである平松氏に「若い頃は“おじろく”や“おばさ”が沢山いたらしいが、仲良くなる人たちはいたのか?」と質問したところ、「自分はしなかったが」と前置きしつつ、「いたいた、夜になると、猪が出てくるようにガサガサ騒がしかった」と夜這いが頻繁に行われていたと、笑いながら答えたそうです。

さらに、夏の盆踊りの際にはおじろくとおばさも参加し、新しいわら草鞋が一晩で擦り切れるぐらい皆で踊り狂ったそうです。そしてその際にも、おじろくとおばさとの間において、盛んに男女の交わりがあったとのことです。

このように、伝統芸能の立役者であったり、夜這いや祭りを通して性を謳歌する「おじろく・おばさ」の実態が書かれており、近藤論文では書かれていなかった側面を見ることができます。

少なくとも、ネットで拡散されている、「おじろく・おばさはその殆どが一生涯、童貞、処女であった」という情報については、間違っているといっていいのではないでしょうか?

4.10. “おじろく・おばさ”は子供を絶対に残せなかったのか?

ネットで流布されている情報では“おじろく・おばさ”は結婚できずに仮に子供ができても間引いていた、とされています。

これを裏付ける古老の証言が、水野論文にはあります。

正式結婚を認められなかったので、部落内の“おばサ”や女衆が、自然と対象となり、親しい交渉が相等永続性があったようだが、間に生まれる子供は、殆どヒネツて、ひまや(月脛宿)の縁下に埋めてしまったり、苦心して堕胎したりして、闇から闇へ葬ってしまったようである。

水野, 1962, p.89

しかし、現存するおじろくである平松氏からは、生まれた子の処遇について、また別の証言があります。

“おじろく”と“おばさ”が出来合い(男女が良い仲になり)、子供が生まれたことはあったか?という質問に、福島部落に住む平松氏はこう答えています。

できた。できた。ウラーはせなんだかナ。むかしは女もあまってたでな。十三、四で子を生んだのもあったニヨ。その子はシサイゴ(私生児)で、親の籍に入れたもんだ。

水野, 1962, p.91

生まれた子は殆どひねった(殺した)、と語ったのは別の部落(遠山村の和田)の古老ですので、部落ごとに違いがあるのかもしれませんが、少なくとも、平松氏が生きた時代の福島部落では、生まれた子は殺さずに親の籍に入れていたようです。

以上のことから、少なくとも明治時代以降は、正式な結婚こそ許されていなかったものの、子供をつくり育てることは、そこまで厳しく禁止されていなかったのではないか?と考えられるのです。

4.11. “おじろく”にまつわるセンセーショナルな逸話

ただし、水野論文の中に“おじろく”についての猟奇的な話が全く無いわけではありません。

別の部落である、旦開村新野の古老、仲藤増雄氏(八三)の談話によれば、新野地方では兄嫁が“おじろく”にからだを与えて働かせることがあったそうです。

つまり、性交渉を対価とすることで、おじろくは兄嫁に頭が上がらなくなり、さらによく働き、一家が平和に続いたということです。これについて夫は見て見ぬふりをしていたそうです。さらに、明治時代には“おじろく”が兄を殺害して兄嫁を妻にした事件もあったとのことです。

このように、信憑性に欠けるアミタール面接をメインにした近藤論文に比べて、水野論文は歴史資料からの考察や、村の古老や親族からの聞き取り調査が多く、信頼性があるように思われます。しかし、読み進めていくと首を傾げるような記述があるのも確かです。

4.12. 現村民の現状

著者は、論文中の「現村民(子供を含む)の性状」の項の冒頭において、この福島部落の人々を“閉鎖的”であると評します。そして、ここから著者の思想が強くなってくるように感じるのです。

筆者はこの部落に数回赴いたが、部落に入ると村人は「他処者の侵入」と云った白い目をむけて、いつまでも注目していた。排他的な空気をひどく感じたし、初対面の人々は碌に口もきいてくれなかった。録音マイクを差し出すとさらに口難くしてしまって困らされた。

水野, 1962, p.91

さらに、福島部落にある、小中学校の校長の証言を載せています。こちらも村人全体、特に男性に対してかなり辛辣なことを言っています。

「村民は極めて退嬰的で、将来への計画とか理想とかは無い。特に若い者に自主性がなく、大正末期の青年団とほとんど変わりない無自覚な状態である。だから、飯田市へ出たり、近くの平岡町へ出かけたりの時、無意味なカネと遣ってしまう。五千、壱万というカネを何に使ったかわからぬように無くして、帰ってくる。
(中略)
全体に排他的、封建性が骨の髄まで浸み込んでいるので、血族結婚が重なっていて、子供たちの智能は話にならない程きわめて低い。
他村から来た嫁さんの子は成績もよい。又、その家の中はその婦人がとりしきる上に、村内の指導的役割りにまで廻る。それで男は一層無気力化してしまう。中学を終えた娘は皆紡績工になってしまうが、男の子は他郷へ就職しても殆どがすぐ逃げて帰村して来る。貧乏でもあり、山の仕事も昔程よくないが、それでも、よい稼ぎになるし、気楽でもあるのだろう。

水野, 1962, pp.91-92

仮にも小中学校の校長が「血族結婚が重なったせいで子供の知能は話にならないほど低い」と断じる事に、個人的に少しギョッとしてしまいました(そもそも近藤論文では“おじろく・おばさ”に知能の著しい障害は無いとしている為、この校長の言い分が正しいか疑問が残ります)。

そして、少し話がずれますが、「男の子にとって山仕事は気楽であるのだろう」と、この校長は述べていますが、この山仕事、林業のことであるとすると、気楽どころか労働災害が多く、死亡率も高い危険な職業です。それを「気楽な仕事」と言い切ってしまう為、この校長の、村の男性批判全般が軽薄に感じてしまいまうのです。

しかし、さらに著者は続けて、この村の高校卒の青年の証言を載せます。

「おじろく・おばさ」と云う制度があったり、あの年寄りたちがその身分であったことは、今迄知らなんだ。村の青年衆にはニ、三男がだいぶいるが、皆親によりかかっているし、積極的にどうしょうと考えている者もいない。今後のことを話し合ったこともない、と語つている。

水野, 1962, p.92

正直なところ、校長と青年の証言を用いて、村人全員がいかに無気力で、それでいて封建的かつ排他的であるかを読む者に印象付けようとしているように思えてしまいます。

著者は、村について「排他的な空気をひどく感じ、初対面の人々は碌に口も聞いてくれない」と評していますが、それは初対面の人に録音マイクをいきなり差し出せば返ってくるであろう、当然の反応なのではないでしょうか?

おそらく著者である水野氏は、調査対象である福島部落が閉鎖的で排他的である事を強調することにより、そのような閉ざされた村だからこそ、悪しき因習としての“おじろく・おばさ”が誕生したのだ、と主張したかったのではないかと個人的には思います。

しかし、“おじろく・おばさ”と直接関係ない、1960年代の天龍村の悪評を一方的に記載しているが為に、客観性や公平性に欠け、そのことにより論文全体の信憑性を損なってしまっているように感じました。

4.13. 水野氏の結論

水野氏は論文の最後の「むすび」の項にてこう述べます。

私は、交通の極端な不便さが打開されて、人も物資も繁く行来できるようになる時と、それに伴って、昔から積み重ねられてきた血族婚の悪習が打破される時こそ、本とうの文明の光がさしこむのであって、その時が来るまでは、この山間の村落は長い眠りから覚められないのであろうと思った。

水野, 1962, p.93

“おじろく・おばさ”などの悪習の原因は、閉鎖的な村での血族結婚であるとしています。しかし、この「村では血族結婚が重なっていて子供の知能が低い」というのは、上記の校長の証言しかなく、正しいのか分かりません。そもそも近藤論文においては“おじろく・おばさ”の著しい知能の低下はない、とされています。そして、「はじめはこの部落に精神病の負因が多いのでかかる疎外者達も分裂病ではないかと思つたが、家系をしらべてもそのようなことがなかつた」(近藤, 1964, p.14)と結論づけています。

血族結婚により、村の子供の知能が低いなどの問題が発生しているのであれば、近藤論文において、医学的見地から言及されているのではないでしょうか?

ここからは個人的見解になります。

最初に紹介した動画内でも述べられていますが、この水野論文が執筆された1960年代はカウンターカルチャーが世界を席巻した時代でもあります。

日本では市民レベルにおいて、反権力やフェミニズム、人種的平等を含む政治運動が発生した。ドラッグの使用は一般化しなかったが、それ以外の音楽、映画、文学、若者文化の分野では非常に多様なカウンターカルチャーの影響がみられた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/1960年代のカウンターカルチャー

上記のように、反権力や男女平等、体制側への反発などの、大きな時代のうねりが起こっていた中で執筆された水野論文が、60年代カウンターカルチャーの影響を受けていた可能性はあります。

そう考えると、水野氏が論文内にて、天龍村(旧神原村)の村民を、閉鎖的で封建的であると、ことさらに強調する理由も分かります。

新しい価値観である60年代のカウンターカルチャーの正しさを主張する為には、“おじろく・おばさ”という制度は好都合であり、その為にも、天龍村(旧神原村)は、「時代に取り残された、悪しき因習がある閉鎖的な村」で無ければいけなかった。だからこそ、水野論文の後半では一方的に村の悪評が書き連ねていた、と考えると腑に落ちるのです。

5. 個人的考察

5.1. 二つの論文を照らし合わせて考える

水野論文、近藤論文共に、1962年〜1964年の2年という短い期間に、天龍村という同じ村で調査を行なっていることから、両論文内に出てくる、現存した“おじさ”と“おばさ”については、同じ人物である可能性が高いです。

近藤論文においては、“おじろく”と“おばさ”は、症例a〜cと呼称されており、本名が分かりません。しかし、明かされている過去の経歴を、水野論文の“おじろく”と“おばさ”と照らし合わせてみると、この人ではないか?とある程度は推測できます。

近藤論文において、症例cとされている男性については、
・問題なくコミュニケーションが取れる。
・兄が弱く若い頃から大黒柱として一家を支えてきた。
・今はラジオで浪速節を聞くのが趣味である。
などの共通点から、水野論文にでてくる、平松政七氏の可能性があります。多少の差異はありますが、狭い地域に上記のようなプロフィールをもつ“おじさ”が2人以上いるとは考えにくいのです。

もし、症例c=平松政七氏であるとするならば、「過去を懐かしむ風もなく諦め切つたような態度で、何か寂しさを感じさせ」(近藤, 1964, p.13)と、近藤論文では悲惨な過去を匂わせる描写をしていますが、水野論文においては「至って朗らかに過去を語って呉た」(水野, 1962, p.88)と書かれており、そこまで悲惨さは感じさせません。

また、同じように、近藤論文における、症例bは、水野論文にでてくる林留良氏なのではないかと思います。“大工の技術を身につけて村の依頼で箪笥などをつくったことがある”という、共通点があるからです。そして、症例bの“おじさ”は、「勝手にタバコを喫つたり茶を飲んだり、いろり端に横になつたり無遠慮である」(近藤, 1964, p.12)とされていますが、この描写を読む限りでは、“自由気ままに生きている”と感じます。“長兄に服従させられ、奴隷のように働かされた”というネット上で語られる情報とはかけ離れているように見えます。

水野論文にでてくる、現存する“おじろく”である林今朝芳氏も、「生来虚弱であったのでブラ/\と気儘に過ごしてきた」(水野, 1962, p.87)と記述があり、これもまたネットて語られる、“厳しい労働を強いられてきたおじろく”と一致しません。むしろ、体が虚弱であるが為に、労働を免除されてきた、とも読み解けるのです。

最後に、症例aの“おばさ”である女性ですが、順当にいくと、水野論文にでてくる村松ゆう氏(55歳)になります。しかし、近藤論文において明治三十四年生まれとなっており、水野氏が調査に訪れた時には61歳のはずで、5歳以上の違いがあります。その為、別人の可能性もありますが、1960年代に“おばさ”がそう何人もいるとは思えません。

仮に年齢の確認間違いをしていただけで、症例a=村松ゆう氏であるとするならば、結婚はしていないものの、子を一人産んでいることになります。ならば、ネットロアとしての“おばさ”の定義から外れることになってしまいます。

5.2. “真のおじろく・おばさ”は存在しなかったのではないか?

ここでいう、“真のおじろく・おばさ “とは、ネットで流布している、長男家族の奴隷として人格を後天的に崩壊させられた存在という意味です。上で書いたように、1962年〜1964年に調査した際の”おじろく・おばさ ”だとされる人々について、論文に書かれていることを一つ一つ確認していくと、そこまで村民から無碍に扱われているとは思えないのです。

近藤論文にでてくる”おばさ”とされる症例aの女性も、「検査に訪れると稲こきの手伝いの人4,5人と食事をしていたが、」(近藤, 1964, p.12)と書かれています。ここを読む限り、他の村人と一緒に食事をとっていますし、食事内容も同じだと考えるべきでしょう。逸話のように、特別に粗末な食事を与えられているのであれば、近藤氏がそのことについて言及したはずです。

また上で、アミタール面接が信頼性に乏しいことについて書きましたが、仮に近藤氏がアミタール により、正確に被験者の過去を聞き出したとしても、そのインタビュー内容を確認すると、「私はばかだ」などの自虐的なものはあるものの、「家族や村民から酷い扱いを受けていた」などの証言はないのです。

ネットで“おじろく・おばさ”について触れる際には、大抵が「山林によって隔絶された村では非人道的な制度があった」などの、センセーショナルな情報を植え付けられた上で、切り抜かれたインタビュー内容を目にすることになります。

おじろく・おばさは無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の行動は出来なくなってしまう。

https://news.nicovideo.jp/watch/nw808992

上記のような内容が、最初に頭に入った状態で、「面白いこと、楽しい思い出もなかった」などの文を読めば、“非人道的な制度によって人格が変わってしまったのだろう”と思ってしまうのは当然のことかと思います。

ちなみに症例aの女性は「もともと無愛想で無口であつたが27才頃からますます著しくなったものの、逆らったりひねくれたりすることもなく素直に働き、」(近藤, 1964, p.12)とあります。これを読む限り、もともと内向的な性格であったのではないかと個人的には思います。もちろん外圧により、さらに人格を変化させられた可能性はゼロではありませんが、「無感動のロボットのような人格となり」は流石に誇張表現ではないかと思います。

症例aの女性は、姉が亡くなった際には「死んだ人はおつかなくて汚い、あんなものは見に行かぬ方がよかつたというのみであつた」(近藤, 1964, p.12)とされています。非常識ではあるかもしれませんが、無感動ではありません。むしろ、死を穢れとして遠ざける、日本人的な価値観そのものといえます。「思ったことを口にしてしまう人」というのが正しいのではないでしょうか?

以上のことから、長男家族の奴隷として一生を過ごす人格を後天的に崩壊させられた“おじろく・おばさ”は、少なくとも戦後以降は存在しなかったのではないかと考えるのです。

5.3. 水野論文の問題点 

本人たちへのインタビューだけにとどまらず、史料や古老からの証言など多角面から、“おじろく・おばさ”について書かれている水野論文ですが、それでも読んでいくと、「“おじろく・おばさ制度”は一律で悲惨であり、また、現存する“おじろくたち”も悲惨なのだ」という前提ありきで書かれているのではないか?と思われる箇所も散見されます。

例えば、平松政七氏について、「ラジオを聞くことがなによりも楽しみで、浪曲、義太夫を一番愛好する意以外は、敷き放しの寝床にごろ寝をするだけである。」(水野, 1962, p.89)と、さも寂しい生活を送っているように書かれていますが、続けて、「この山間地はテレヴイの電波が届かないので(中略)そういう文化にも見放されている」(水野, 1962, p89)とあります。

つまり、電波が届かない為、テレビが見れないだけであり、ラジオで曲を聞くという娯楽はきちんと享受しているのです。これを「文化にも見放されている」と表現するのはいかがなものかと思います。そもそも、平松氏は「神原村福島部落の伝統の芸能である獅子舞(義太夫にあわせて立役や女形の芝居を演ずる)の立役者であったし」(水野, 1962, pp.90-91)とある為、村の芸能文化の中心人物であったといえるのですが。 

さらに平松氏の身の上話を聞きいた上で、「この人の苦労に満ちた人生に調査の一行はすっかり感嘆してしまったのだが、この人達が殆ど全部「社会に住んで、社会のない人達である」ということを強く思ったのであった。」(水野, 1962, p.92)と著者は感想を述べます。

たしかに、平松氏が若い頃から大変な苦労をされきたのは確かのようですが、それは大黒柱として一家を支える為に働いてきたからであり、その苦労が“おじろく”特有のものであったか?というと疑問符がつきます。さらに、上で紹介したように、生来体が虚弱である為に、気ままに暮らしてきたといわれる林今朝芳氏の例もあります。“おじろく”と呼ばれた人々の境涯は、十人十色のように感じるのです。

そのような人々を一律に、「社会のない人間である」とするのは乱暴すぎるのではないでしょうか?

6. まとめ

“おじろく・おばさ”について論文を読んだ上で分かったことを、以下にまとめたいと思います。

・ネットロアの下地となった論文である「未文化社会のアウトサイダー」(以下近藤論文)におけるアミタール面接は現代において信憑性が疑問視されている。

・仮にアミタール面接によって得られた証言が正しかったとしても、その証言内に家族や村人から非人道的な扱いを受けたというような内容はない。

・もうひとつの論文である「置き忘られた制度の遺物「おじろく・おばサ」の調査と研究」(以下水野論文)においては、十人十色というべき“おじろく・おばさ”の境涯が記述されている。

・また近藤論文には「宗門別帳や戸籍に厄介と書き込まれていた」とあるが、水野論文を見る限り、宗門別帳にも戸籍にもそのような記載はない。

・水野論文では伝統芸能の立役者として活躍した“おじろく”について書かれている。

・また、現存した“おじろく”である平松政七氏の証言によると、夜這いは盛んに行われており、“おじろく”と“おばさ”の間で性的関係がある事も普通であった。

・正式な結婚が認められていなかったのは確かなようであるが、平松氏の証言によれば、子供ができても間引いたりせずに親の籍に入れて育てていた。

・同じく平松氏の証言によれば、盆踊りでは“おじろく”、“おばさ”ともに踊り狂っていたとのことで、「祭りなどの行事への参加を禁止されていた」という情報は誤りであると考えられる。

・古老の証言によれば、兄嫁が性交渉を対価として“おじろく”を働かせたり、“おじろく”が長兄を殺して兄嫁を自分の妻にした事件があるなど、猟奇的な話がないわけではない。

・別の古老の証言によれば、“おじろく”と“おばさ”が恋仲となって村外にでることもあり、その場合でもそれを積極的に阻止するなどはしなかった。

・水野論文は「“おじろく・おばさ”は悲惨な制度であり現存の“おじろく”も悲惨な境遇である」という前提ありきで書かれている節があり、客観性に欠ける箇所がある。特に現存する“おじろく”である平松氏に関する記述は、著者の主観が強い。

・また水野論文の後半では、“おじろく・おばさ”と直接関係がない天龍村の現村民の真偽不明の悪評が記載されている。

以上のことから、ネットで語られる「長野県旧神原村では、長男意外の子供は「厄介」とされ、祭りなどの行事に参加することもできず、人格を崩壊させられて、奴隷同然の扱いを受けていた」という情報は、誇張が過ぎるものであるといえます。

もちろん、部落ごとに差異があるかもしれませんし、江戸時代以前には非人道的な制度があった可能性は否定できません。しかし論文が書かれた1960年代に現存した“おじろく”や“おばさ”と呼ばれた人々が、奴隷のような扱いであったとは、論文を読む限り、とても思えないのです。

7. おわりに

ネットロアとして、それなりの知名度をもつ“おじろく・おばさ”ですが、それについて長野県民から疑問の声が上がることは、私の観測範囲ではほとんどありませんでした。

これは長野県民の気質、というか県民性があるのではないかと思います。長野県内は高山によって地域ごと分断されています。その為、長野県全体のまとまりはあまりなく、他の地域への関心もあまりありません。さらに“おじろく・おばさ”があったとされる旧神原村は長野県の南端に位置します。

つまり、「長野県の南端の村において非人道的な制度があった」という情報を目にしたとしても、大多数の長野県民にとって、それは対岸の火事であり、当事者意識が薄い為、声を上げることもなかったのではないかと推測するのです。

最後になりますが…。なぜここまで“おじろく・おばさ”がネット上で拡散されることになったのか?これはやはり、それについての論文があるが為に、最近まで実在した非人道的な因習として、人の目を惹きつけたからではないでしょうか?

「ブラック企業や技能実習生などの現代的な問題と紐付けて考える」という体で、その実、エンターテイメントとして消費している層もかなりいるのではないかと思います。

実際、(YouTubeなどの動画サイトは特に顕著ですが)“おじろく・おばさ”を取り上げたサイトは、近藤論文の切り抜きを繋ぎ合わせたようなセンセーショナルな内容のものが大半を占めており、近藤論文、水野論文両方を精査した上で、“おじろく・おばさ”について取り上げたものは、ネットを見渡しても数えるほどしかありません。

一長野県民として、できるだけ正しい情報を知って欲しいと思い、この記事を書いた次第です。ただし、同じ長野県民として“おじろく・おばさ”が嘘であってほしい、というバイアスが無意識のうちにかかっているかもしれません。しかし、できるだけ客観的な視点からの記述を心がけたつもりではあります。

皆様も、ネット上に流布しているセンセーショナルな内容に惑わされずに判断してほしいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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