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DV男から逃げたわたしが「自分を大切にすること」を知るまで

 わたしは恋人に殺された。

 正確に言うと元恋人である。そして殺されたのは生物学的にではなく精神的に、という意味で、要は元恋人から精神的なDVを受けていたのである。

 わたしが限界を迎えたのは2020年3月1日。決定打となる何かがあったわけではなく、コップの水がいきなり大量にあふれ出すように「死にたい」「死んでやろう」という感情に支配され、わたしは千葉県内のある駅のトイレでポーチに入っていた薬(ADHDの治療薬、抗うつ薬、胃薬、ロキソニンなどなど)を全部一気に飲んだ。
 飲み終わるとほどなくして変な汗が出てきて体温が一気に下がっていくのがわかった。寒い。ぼんやりしていく思考の中で、あ、本当に死ぬかもと思った。死のうと思ってオーバードーズしたはずなのに死ぬのが急に怖くなった。というか、あんなやつのために死ぬのが虚しく思えてきた。

 本当に幸運なことに、わたしの姉は医者で、今までの経緯(わたしがDVを受けていたこと、話し合いがこじれていたこと…すべてこの後書こうと思う)をすべて知っていた。
 「トイレにいる」「薬飲んじゃった」「さむい」のような短いLINEをいくつか送った。嫌な予感がしたのか、姉はスマホをチェックしてくれていた。
 「水飲んで」「今持ってる水分全部摂って」「もう少ししても良くならなかったら救急車呼んで」わたしはペットボトルの麦茶を飲み干して、トイレの個室の床にべったりと座り、壁にもたれてぼーっとしていた。

 ちがうよ、付き合うまでは優しかったんだ。付き合ってからも優しい時はあったんだよ。今でもわたしの中のわたしはそう言い訳する。わたしはポリアモリー(複数の人に同時に恋愛感情を抱く)という性的指向で、彼とはポリアモリー関係にあった。もちろんそのことは最初に彼に伝えていた。それもわかったうえでお互い好きになった、とわたしは思っていた。

「選ぶときは僕を選んでね」

 初めて違和感を持ったのは付き合って間もない頃のその発言だった。選ぶときは?わたしが複数性愛者だって知ってて付き合ったのにその仮定をするの?僕を選んでね?選択をするのはわたしなのに?選択って個人が自分の意志でするものじゃなかったっけ。わたしが混乱している間、彼は勝手に話を進めていた。同棲?結婚?この人何を言っているんだろう。ぼんやりそう考える中、わたしはなぜかうなずくことしかできなかった。話の中身がほとんど入ってこない中で。

 今思い出すと、彼はわたしが彼の思い通りに動かないと急に卑屈になり「どうせ僕なんて君にとってその程度の存在だ」「寂しい」というようなLINEを何通も送ってきた。どうしても忙しくて急なデートの誘いを断ったときとか。体調が悪くて彼とのデートの約束をドタキャンしてしまったとき、彼はわたしの体調を心配するより先に「君は僕を惨めにする」と言い放った。

 付き合っていた頃、けんかをするとわたしはよく「あなたは自分のことしか考えてない」と言った。けど彼は自分のことしか考えていなかったわけではない。何も考えていなかったんだと思う。彼なりの価値基準があって、わたしがそこから外れると不満だったんじゃなくて、なにも考えていなかったんだ。と、今になって思う。

 最初に殺されたのはそれから少し経った頃。待ち合わせをした銀座で、酔っぱらった彼はわたしに「ブス!」と言った。

 大学2年生くらいまで、自分のことをブスだと思っていた。当時わたしは化粧もスキンケアも知らず、適当に取った服を着ていた。要は、ただ垢抜けていなかったのである。
 そして残念なことに、たまたま周りに「自分の好みでない女にはブスと言って良い」という考え方の、心無い男性がいた。その人に容姿のことを繰り返し「イジられ」た(今思えば完全にいじめだった)。
 彼に別に恋愛感情はなかったしなんとも思っていなかったけど、わたしはそれなりに傷ついた。そしてダイエットをしたり、化粧を覚えたり、今では化粧は最大の趣味だけど、当時のわたしとしてはかなりの努力をした。そうしたら周りからの扱いも変わり(これもひどい話である)、わたしは自己肯定感を少し上げた。

 しかし、その一言でその努力をすべて踏みにじられた。わたしが積み上げてきた自己肯定感も偽物だと切って捨てられた。しかも、信頼していた人に。好きだった人に。

 そのあとどうしたかは覚えていない。ただ、時間が経ってから小さなケンカをした際に「ていうかあのときブスって言ったよね」と言ったら「え?そんなの言ったっけ?」と言われ、さらに数時間後「あ、言ったわ」と言われ、「なぜあんなことを言ったのか本当にわからない、ブスだなんて思ってないし悪いと思っている」ということを言われたが何も心に入ってこなかった。あ、忘れてたんだ。その程度のことだったのね。なにより、彼が他人の外見について言及していいという考えの持ち主だということがそこで明らかになってしまった。

 付き合い始めてすぐ、彼はわたしのことを家族に話したと言っていた。彼は家族仲が良く、わたしもなぜか付き合ってすぐ彼のお母様に会わされたのだが「きょう小島ちゃんのことを母親に話したんだ〜」と言われた。
 よかったね、と返す。どうせ、わたしがどんな人とかどこで知り合ったとかそんなことだろう。しかし彼が話したのはそんなことではなかった。
 彼はわたしのセクシュアリティと、精神に病気があること(これに関しては以前からオープンにしていた)を母親に伝えていたのだ。そして母親から言われたらしいのは「○○(彼の名前)が幸せならそれで良い!」。それを彼は誇らしげに語り、自分と家族がいかに仲が良いかを語り始めた。

 え。
 これって、あの、アウティングってやつ?だよね?
 わたしは頭が真っ白になり、彼と家族の話をほとんど聞けなかった。
 確かにわたしは自分のセクシュアリティや病気のことを恥ずかしいと思ったことはない。特に前者に関しては、理解のない人を弾くためにもオープンにしている。
 だけど、それを知らない人に勝手に話され、自己満足の材料にされるのは全く別の問題である。

 この一件で、わたしはまた死んだ。
 これと最初の一件で、わたしは自分のセクシュアリティを恥ずかしいと思うようになって隠すようになった。話すと「普通」の人の気持ちいいように利用される。話しても絶対理解されない。そもそもわたしが「普通」じゃないのがいけないんだ。本気でそう思うようになった。

 とにかく彼はわたしのセクシュアリティに理解がなかった。「僕を選んでね」発言もそうだし、バイセクシュアルであることにも理解がなかった。
 男友達と遊ぶ時は、その友達の名前やどこで知り合ったか、会った後にはどこで会って何を話したか、彼のことを話したか、しつこく繰り返し聞かれた。そして彼はわたしの男友達のTwitterアカウントを特定しては誇らしげにそれを語った。わたしは彼のその趣味が原因で1人の友人を失いかけた(わたしがとにかく謝って許してもらえた)。
 なのに、彼は女友達に関してそれをしなかった。それって、ただの「普通」の押し付けだよね、と友だちに言われた。わたしもそう思う。

 そして、障害に対しても理解がなかった。

 「僕は、小島ちゃんがたとえ障害者でも好きだよ!」
 これはわたしに発達障害の診断が下りた2019年10月頃に言われた言葉だ。

 え?
 なにを言っているの?
 わたしはそう思わざるを得なかった。
 「たとえ障害者でも」?わたしに対しても障害のある人に対しても失礼すぎる。何様のつもりなんだろう。この人はわたしが障害者かそうでないかでものを語っているの?というか、障害についてきちんとわかっている人がこんな発言をするわけがないよね?

 これでわたしの心はめでたく三回死んだわけだが、なにが大変だったって、彼はそれら全てを「わたしのために」しているつもりだったのだ(こればっかりは愚痴だと思って読んでほしい)。

 彼の誕生日、なぜか彼はわたしに無断でペアリングを買った。わたしの誕生日、なぜか彼はわたしの写真をくれた。意味がわからないと思うが、彼はすべての行動を「わたしのために」しているつもりで、自分のことしか考えていなかったのである(というか、なにも考えていなかったのかもしれない。彼はよく、僕って良い彼氏だよねと言っていた。どこが?)。

 このあたりで、わたしはようやく気づく。
 ああ、彼はわたしを好きなわけじゃないんだ。セクシュアルマイノリティ・精神病・発達障害、そんないろんな問題を抱えたわたしといることで自分のヒロイズムに気持ちよくなっているんだ。わたしが大切なわけじゃ全然ないんだ。

 これ以外にも彼にされた精神的暴力を挙げたらキリがない。あえて挙げないのは、わたしはこのnoteを書くことで同情してほしいわけじゃないから。そして、なによりも書いていると色々なことを思い出してしまって無駄に怒りのエネルギーを消費してしまうからである。

 「別れたら殺すからね」
 彼は本気でやると思っていた。だから別れられなかった(今思えば本気で自分を殺しそうな人とはさっさと別れたほうがいい)。そしてその結果、ストレスが積み重なり、3月1日に至ったのである。

 その日はどうやって家に帰ったのか覚えていない。ただ、その日を境にわたしは変わった。
 人生をめちゃくちゃにされた。ただぼんやりとそう思いながら毎日過ごした。
 鏡を見れば「ブス!」という声がフラッシュバックして、彼以外の心無い人たちに外見について言われた言葉たちが決壊したダムのように押し寄せてくる。
 とにかく毎日だるくて眠くて頭が痛い。頭の中を誰かに乗っ取られているみたいだった。なにも考えられなくなり、予定がない日はほぼずっと泣きながら横になっていた。

 わたしは完全に、いわゆるPTSDだった。そしてうつ病もかなり重くなっていた。それはのちに主治医に診断されて、ああやっぱりかと予感が確信に変わったのだった。

 殺してくれ、そしてお前も死ね、みんなは幸せであれ。お前はわたしと同じくらいの苦しみを味わえ。それが毎日の思考の大半を占めた。わたしは人の形を失った。自分のことがなにか、どろどろした醜い化け物のように思えて、鏡を見てもそこに人はいなかった。
 オーバードーズを繰り返し、毎日のようにお酒で薬を飲み、大量に飲酒をしては一人でハハハと笑って、すぐに泣きながら眠っていた。

 だけど、夏のものすごく暑い日にさっと吹く風が気持ちいいように、どろどろで苦しくて死んでしまいそうな中にも優しさはあった。

 ひとつは、わたしには友だちがいたこと。
 自分には友だちがいないと思っていた。
 昔からなんとなく周りとなじめず、小学校の昼休みはいつも自分の席で1人で絵を描いていた。中学と高校は部活の同期たちとは上手くやれていたものの、常に誰かに悪口を言われているような不安がつきまとう。

 大学のダンスサークルでは、周りになじむことを諦めた。そうしたらそのキャラクターと、ダンスが上手かったことと顔がそれなりにかわいかったことが災い(?)してただのキャラクターとして扱われた。勝手に期待されては失望され、周りにいつも誰かいたけど誰も好きじゃないし信頼できない日々だった。

 だけど、大学卒業前のひと月をせめて「有意義」なものにしようと、わたしは数少ない一緒に過ごすと心地いい人たちと予定を入れた。
 サークル内で、実務面でもそれ以外でも一番信頼できた女の子とオムライスを食べた。大学一年生の頃から勝手に「推し」と呼んでいた女の子と名古屋旅行をした。ゼミでできた親友とディズニーランドに行った。かつては先輩だった、今は友だちと呼べる人とお茶を飲んだ。恩師に卒業前に会いたいです、と無理やり時間をあけてもらった。どこで知り合ったのかもわからないけど気づけば頻繁に早稲田のどこかで会っていた人たちと連絡を取った。

 その人たちにわたしは「近況」として笑いながら一連のことを話した。実は彼氏と別れてさ〜、こんなことがあって大変だったんだよね。

 その人たちは誰も笑わなかった。真剣にわたしの心配をしてくれた。
 昔先輩だった人は、隣を歩きながら静かに「君が生きててよかった」と言ってくれた。名古屋の電車の中で彼女は、わたしがされたことに真剣に怒ってくれた。親友はわたしが彼に言えずにいた不満をすべて代弁して、一緒に不満をぶちまけてくれた。オムライスを食べた女の子は本当に大丈夫?と何度も聞いてくれた。恩師は帰り際に、オーバードーズだけはもうしないように、と強い口調で言った。

 その他の人たちの中にも、わたしの話を聞いて笑った人は誰もいなかった。みんな心配して、わたしの代わりに怒ってくれて、わたしが生きていることを喜んでくれた。

 あ、わたし友だちいるじゃん、とその時になってようやく気づいたのである。もちろん数は人より少ないと思う。それにいつも一緒にいるような関係の人はいなくて、その人たちといつもはある程度距離をとっている。
 でも、その人たちみんながわたしにあったこと全てを「わかって」くれた。そしてわたしの味方になってくれた。
 友だちはいつでも味方でいてくれるし、わたしは友だちに恵まれていたとやっと気づいた。

 ふたつめとしては職場のことがある。
 曲がりなりにも4月に就職をした。そんな状態でもなんとか新社会人となり、早速在宅ワークを開始した。かねてからインターンとして働いていた会社だったから、仕事の勝手はわかっていた。

 しかし、限界はすぐにやってきた。
 なんとか「社会人」としてやろうとしてたけどわたしは社会人どころか人の形を保つのが難しくなってしまったのだ。なにか、どろどろとして、すくいとる事も難しいなにか。色はたぶん黒か紫。自分がそんなものになっているかのような毎日だった。

 6月になって、1日のうちほとんどを泣いて過ごすようになった。泣きながらパソコンを起動し、泣きながらslackを開く。なにが悲しいのかもわからずに、ただ涙が出てくる。その場しのぎの解決策はお菓子を食べることと眠ることだった。わたしはほんの数週間で7キロ太った。

 休職、という選択を上司に伝えたのは6月の半ばだった。わたしの状態を見かねた主治医とカウンセラーさんが提案してくれて、わたしはいやいやながらもそれに従ったのである。

 休職が嫌だったのは、休むことは甘えだと思っていたから。そう思うようになってしまったのがいつかはわからない。練習を休むと影で「サボり」「あの子は甘い」と言われまくった吹奏楽部時代のせいかもしれないし、とにかくバリバリ勉強しまくって大学に入ったという成功体験のせいかもしれない。見下され、ナチュラルに尊厳を無視されることが常態化していた彼との付き合いの中で、少しでも頑張って自分の価値を保とうとしていたせいかもしれない。

 そんなわたしの性質を姉は見抜いていて「休職をするのは休むことはダメなことではないという考えを身につけるため」という一言でわたしを折れさせた。「何もしなくてもオッケー、っていうのが普通の状態だから。まずはそれになんなきゃいけない」と姉に言われ、わたしは何も言えなかった。

 だけど、上司は本当に優しかった。休職の理由を聞かなかったし(むしろ仕事がしんどいのだと勘違いさせてしまって申し訳なかった)、週終わりから、と言ったわたしに今日からしてくださいと言ってくれた。
 なんとか仕事に戻った今も、毎日のように「無理しないで」と繰り返し伝えてくれる。この会社で良かったと心から思った。

 あとは、これを機に(という言い方は合わないけど)ママにセクシュアリティのことを打ち明けることができた。

 実は自分はポリアモリーというセクシュアリティで、一度に何人かの人を好きになってしまうんだけど、それで付き合ってた人にDVを受けてこうなっちゃった。

 それだけのことを伝えるのにものすごく時間がかかった。

 ママは厳格というか、とくに恋愛とか男女の付き合いに関しては潔癖な部分があった。姉が恋人と同棲すると言った時には挨拶に来いとナチュラルに言って恋人側をビビらせ、わたしが成人するまで彼氏との旅行をよしとしなかった。テレビで芸能人の不倫とかが報じられると「しんじらんない」と言っていた。

 だからママにポリアモリーであることを明かすことがすごく怖かった。
 汚い、頭がおかしい、浮気者、病気、ビッチ、ヤリマン、今まで言われた言葉を気にせずにいられたのは、そういう性愛の多様なあり方に理解を示さない人とは上手くやれないしやりたくもないと思っていたからであって、大好きなママからそんなことを言われたらどうしようと、それがとにかく怖かった(実際、好きだった彼から言われて傷ついたし)。小さな子どものようだけど、何よりも怖かったのである。わたしはしてしまったいたずらを隠すように、それを今まで隠し通してきたつもりだった。

 ママは、あなたに複数人の恋人がいるのは知ってたよ、と言った。でもそれはあなたのプライベートだし、あなたが好きにするべきことだから。それに関しては彼女はそれだけを淡々と言い切った。

 最低だね、その…男?女?男。へえ。クズ!
 ママは吐き捨てるようにそう言った。
 絶対パパには言わないからね。それ以外彼女は何も言わなかった。

 その日の夕食で、会話のふとした時にママはわたしを抱きしめた。
「さっきできなかったから。何があっても味方だからね」
 父に聞こえないように彼女はそう言ってくれた。わたしはやっと泣くことができた。

 どろどろのまま泣いて、優しさに触れてはまた泣いて、わたしはある気づきを得た。

 23年間生きてきているが、おそらく今まで一番多く言われたアドバイスがある。
「自分を大切にして」
 両親に、恋人に、友人に、先輩にそう言われ続けてきた人生だった。

 しかし、わたしにはそれがわからなかった。わたしに限らず、おそらくそういう人は一定数いるのだと思う。自分を大切にしていないように見える人はわざとそうしているんじゃなくて「自分を大切にする」とは具体的にどういうことなのかよくわからないのだ。少なくともわたしはそうだった。

 とりあえず1日学校を休んでみたり、早寝してみたり、お風呂にゆっくり浸かってみたり、好きなものを食べに行ってみたりするけどどれもいまいちピンとこない。
 そのままわたしは23年間を過ごしてきた。

 そのまま、今回も精神科にいた。オーバードーズをした10日後、3月11日。こうこうこういうことがあって、オーバードーズしちゃいました。わたしはいつも通り、主治医のおじさん精神科医に現状報告をする。

「DVっていうのは、いつ頃、どんなことがあったの?」
「えっと、結構長い間です。何ヶ月も。外見についてひどいことを言われたり、セクシュアリティを否定されたり、障害について馬鹿にされたり、それらをアウティングされたりしました」
「セクシュアリティを否定されたの?それはひどいね」
「はい、それでずっとつらくて…」

 なぜかそこでわたしは涙が止まらなくなってしまった。ずっとつらくて、また繰り返すけど涙は止まらなくて、ただおじさん主治医の前で泣きじゃくることしかできなかった。

 わたし、ずっとつらかったんだ。
 あの人にずっと苦しめられていたんだ。
 あの人にひどいことをされて、あの人を心の底で憎んで、ずっと苦しかったんだ。

 そのことに気づいてわたしは涙が止まらなくなったのだと思う。
「つらかった」「憎い」「苦しい」それらの感情を初めて認めることができて、わたしは驚いて安心して泣いたのだ。

 大学の頃人よりもだいぶ数多く、真面目に受けた講義の中で今でも心に残っていることはたくさんあるわけではない。けど、心理学の講義で、物腰が柔らかくて穏やかでお上品な年配の女性教授が言っていた。
「すべての感情には理由があります。その通りに行動してはいけない感情もあります、たとえば怒りとか、憎しみとか。でもすべての感情にはそれが起こるだけの理由があるんです。だからあっちゃいけない感情なんてないんです」

 その言葉を思い出して、わたしは精神科からの帰り道を歩いていた。
 わたしは、少なくともこのことに関してネガティブな感情を認めることができなかった。というか、自分にそれを許さなかった。
 その理由は被害者ぶりたくないからなのか(だけど冷静にわたしは被害者である)、一度でも好きだった人のことを悪く言ってはいけないと思っていたからなのか(だけどほぼ恐怖で支配されていたし、悪く言っちゃいけないとしても彼は度を超えたことをしてきた)わからないけど。

「自分を大切にする」ことの第一歩は、自分の感情を認めることなのだと思う。それがどんなことであっても。あってはいけない感情などないので、それが自分の中に存在しているということを認めることが大切だったのだ。そのあとの行動をどうするかは脳みそを使えばわかることである。

 7月半ば。わたしはだいぶ人間の形を保てるようになった。それでもまだつらい日はあって、そういう日は寝っ転がって休み休み仕事をしている。この前1日中出かけたら疲れ切ってしまって次の日は昼まで寝てしまった。だけど、だいぶわたしの体は輪郭を取り戻した。毎朝走るようになって、毎晩筋トレをするようにしたらついでに体重も戻ってきた。

 仕事終わりに予定があるので、昼過ぎから駅前のスタバで仕事をする。いつもつけていくのはママにもらった指輪。きょうはピアスもしよう、と思って葉っぱをかたどったシルバーのピアスを手に取ると彼にもらった(今思えば押し付けられた)指輪が目に入った。躊躇なくそれをゴミ箱に捨てた。なぜ今までとっておいたのだろう、こんなもの。彼との時間に良い思い出を見出したかったのか(そんなものないよ)、モノに罪はないと思いたかったのか(指輪となると別である、何よりこれダサいし)わからないけど。とにかくわたしはそれを、お菓子の空き箱と同じようにポイと捨てることができた。

 少し遅れて嬉しくなって、姉にLINEをした。
「クソ野郎(と呼んでいる、彼にはこのくらいの事はしたと思って欲しい)からもらった指輪捨てたった!」

 まだ取っておいたのかよ、と言われそうだったけど嬉しかった。慰謝料も払ってくれるって言ったんだから早く請求しなきゃ。その手続きを事務的にこなせる程度にはわたしはわたしに戻ってきていた。

 まだ、DVを受ける前のわたしには戻れない。というか一生無理だと思う。
 でもわたしは元気だ。

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