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読んでもらえなかったミステリ小説



 こんな天気の悪い日に、わざわざ出てきてくれてありがとう。

 去年、父が亡くなってからまた色々と考えたことがあってね。自分しか見ない日記に書くのと、身内ではない他人に話すのとでは違うから。またあなたに話を聞いてほしいなと思ったんだ。
 毎度のことながら楽しい話ではないから、今日のメインはその温かいアップルパイと生クリームだと思って。この厄介な雨の音に、僕の話を混ぜて聞き流してくれたら。


  2020年に脳梗塞で左半身が麻痺になり車椅子生活になった父は、隠していた玉手箱を開けて家族を驚かせた。無職の身分で100万近い借金を隠していた。貯金も仕事もないのだから返すアテは母しかいない。
 自尊心が低く蓄えも地位もない人間はね、自分の命を相手の秤に勝手に乗せる。そうする以外に名案が思いつかないくらいに追い詰められていたんだろうね、過去と未来の自分に。反対の皿に何が乗っているか見ようともしない。自分の命の価値よりも、命を秤に乗せることが目的になっていたんだ。本末転倒だと思わない?重みがなければ天秤は傾かないのに。
 「首を吊ってお前らをこの家に居られなくしてやる」と母を脅して、借金の責任を負うことや家族と向き合うことをやめた。そして、一番大切な『自分自身の人生をより良いものにしようと努力を続けること』を放棄したんだ。自分の命を他人の天秤に乗せるって、そういうことだと思う。
 子どもの僕は、茶碗の割れる音や母の啜り泣く声、自暴自棄でモラハラ気質な父、そういう悲しい生活から兄妹たちを守りたいと思った。母も救いたかった。でも、父に声は届かない。自分が暴力を振るうことも考えた。包丁を握って色んな想像もした。中途半端な暴力では父を止められないことがわかっていたから。少年法についても調べた、加害者の家族がどんな生活を送るのかも。僕がやれることの先にはいつも、悲しみに打ちひしがれる家族がいた。僕は無力で、父が死ぬか、家族の誰かが心と体の限界を越えてしまうか。望む結末は一択だった。
 何もできない僕は、父に死んでほしいという思いを手紙に書き残した。将来の自分に向けて託したんだ、将来幸せになったとしてもこの気持ちを忘れるなよって。美談にして語るなと、呪いをかけた。遺書ではなく手紙だ、必ず読めよってね。そういう呪いみたいな希望を、今の僕に残してくれたんだよ。

 病室の父は、頬が痩けて精気もほとんど失せていた。糖尿病の合併症で壊疽した両足を膝下から切っていたから、物理的にも小さくなっていた。  
 差し入れで持っていったのは、『名探偵のままでいて』っていうミステリでね、レビー小体型認知症の祖父と一緒に、主人公の身の回りで起こる事件を紐解く物語なんだ。記憶や自分が曖昧になる不安定さと付き合いながら、大切なものを心から失わずに病気と過ごすその祖父を読んで、僕は父の顔を思い出してね。自分の死や、人生について考える時期を迎えている父に、穏やかな物語を渡したいと思ったんだ。でもね、父が本を読む姿なんて見たことなかったから、好みも分からなくてさ。あれは僕自身のエゴと親孝行だっだ。
 死んでほしいと願った父がこのままいなくなり、子どもの頃の僕が願った未来に到達するのは違うと思ったんだ。子どもの頃に願った幸せの中には、母と兄妹だけじゃなくて、父もいたはずだから。父へかける言葉で、子どもの僕が伝えたかった想いも掬いあげて、父の背を撫でる手で、幼い僕の手を握りしめた。父とあの頃の僕を、1人にしないと決めたんだ。

 結局、父はその本を2ページ読んで亡くなった。糖尿病網膜症で目も見えなくなっていて、小説の文字は拡大鏡を使ってかなり集中しないと駄目だったらしい。「途中までだけど面白いわ」と感想をくれたけど、見えないことは話していなかった。誰もいなくなった病室から荷物を引き上げる最中、栞が挟まった本を見つけて少し泣きそうになった。



 これで終わり。聞いてくれてありがとう。雨も小さくなったし、そろそろ出ようか。

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