見出し画像

過痕

入院している最中に書いたもの。失った代わりに得たもの。

揺れる三日月、跳ねる魚、歌う鳥。風が呼んでいるので、木々が騒いでいるので、森へ。枝を踏みしめ、石を辿って、奥深くへ。

家を見つけて入ると、影がなかった。驚いて見渡すと、鏡に醜い姿が映っていた。歯ブラシがあったので歯を磨き、蛇口があったのでうがい手洗いをし、お風呂があったので体を浄め、くしで髪をとかした。もう一度鏡を見ると、普通になっていた。自分のものではないクローゼットを開けて、洋服を着て、靴を履いた。気付けば影があった。朝だった。

振り返る未来から滑り落ちる過去。握りしめる掌。すでに書かれたものを前にして、立ちすくむ足裏。内容に気を付けなければならない、手紙を書くときには。ときどき気になるのは、小鳥の行方。どこへ行ったのだろう。首をひねって考えても、頭からは出て来ない。逆立ちしてみたけれど、やはり出てこない。出入口が気になったので見てみると、葉っぱが落ちていた。どこからだろう。窓を見てみると、小鳥がいた。ガラスをコツコツ叩いていた。カーテンがふわりと舞った。視界がぐらりと揺れた。

そこは戦場だった。銃声が聞こえた。悲鳴が上がった。あまりの恐怖に目を閉じて耳を塞いだ。知らない方が良いこともある、と脳裏に閃いた。けれど知りたいという欲求が勝って、目を開いた。行かなければならない、と足が動き出した。気付けば走っていた。どこへ行くのだろう。何かから逃げているのだろうか。

突然、罪の意識を感じた。今まで自分は何をしてきたのだろう。無知は言い訳にしかならない。「お前は馬鹿だ。悪魔だ。呪われている」言葉が耳に突き刺さった。目に焼き付いたのは、誰かが倒れた一瞬。私だ、と思った。もうひとりの私だ。罪人としての私、犯人としての私。そうか。処刑されたのか。喚声が上がった。拍手が起こった。血は流れて川となった。海まで辿り着くだろうか。

待ち合わせをしていた。どちらかが早くてもう一方が遅いのは、いつものことだ。待ち遠しくて、ぐるぐる回った。17週くらいしたところで、やっと来た。

「遅いよ」
「ごめん。待った?」
「いいよ。天気がいいから」
「天気が?」
「そう。ごきげんなの」

不思議そうな顔をされたので、笑った。忘れているのだから、仕方ない。

「クジラって見たことある?」
「TVでなら」
「TVの裏側を見たことある?」
「そういえばないな」
「全部嘘だと思わない?」
「まさか」
「ニュースは全部映画で」
「まさか」
「超大作」
「嘘つき」

ちくりと胸が痛んだ。そこから血が流れ始めた。途端に色々なことを思い出した。

「どうして泣いているの」
「分からない」
「どうして」
「分からないよ」

嘘つき、ともう一度その唇が動いたような気がして恐怖した。突然座り込んだことに対して何か言われはしないだろうか。大丈夫、と肩に手を置かれて反射的に振り払った。

「嫌なの?」
「そう」
「嫌いになった?」
「ううん」

言い切れないことに罪悪感を感じて、口をつぐんだ。逃げ出したくなった。

「どこ行くの」
「ここではないどこか」
「そんなのないよ」
「そんなはずない」

ひとことが切り口だった。世界はぱっくりと割れた。

林檎の香りがする。兎が夢を見ている。雲が浮かんでいる。舞い踊る蝶。星屑を食べた。金平糖みたいだった。パンに蜂蜜を塗って食べた。甘くて美味しかった。なのになぜ泣いているのだろう。切ったのが自分ではないからか。血は今も流れ続けている。浮かび上がる文字。あの人からの手紙だ。あの時からの返事だ。読み上げる端から消えていくけれど、脳裏に焼き付いている。火の粉となって舞い踊る、体の内側から外側へ、螺旋になっている。懐かしい香り。忘れていたものが一度に甦った。

歌が聞こえる。耳を澄ませばいつでも。美しいもののために醜いものが生まれたのなら、私たちは愛さなければならない。すべては目の前にある。隠れているものは、見なくても良いものだ。リボンはとっくに結ばれている。あとは解くだけだ。すべては本に書かれている、そんな気がした。大いなるものの背後に隠れたかったが、それは許されなかった。ただ、影を見ることを許された。光を知るために。体と命だけを与えられた。あとは無くてもいいものだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?