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金魚

甘すぎるものは毒になる。そう、私は初めて知った。何なのだろう、一体、この感覚は。吐き気を催すような、目眩がするような、頭痛に苛まれるような、それでいて逃れ難い。酸素が薄くて呼吸をするのが難しい魚のように、緩慢な死を与えられる感覚。真綿で全身をぐるぐる巻きにされて、ひたすら泥のような眠りに つく気分。……ああ、これが絶望というものだろうか。見事なまでに光が見えない。かといって、底知れぬ闇かといえばそうでもない。それとも、ここは底なのだろうか。底だから、もう底が分からないのだろうか。起き上がる気力さえもない、そんな手足を怠惰に伸ばす。その先に触れるのは、

「……**さん」
「おはよう」
「起きてますよ、ずっと」
「そうだっけ」
「そうです」
「いつから?」
「忘れてしまいました」
「そう」

この人は、いつからか。私をこんな目で見るようになった。愛しさも、憎しみも、全て突き抜けてしまったような、透明というにはあまりにも黒すぎるどろっとした液体のような。そんな目で。……綺麗な顔をしているのに。そんな目が全ての色を奪って、私に光も夢を見ることさえ許さない。

「……チョコレート、」
「え?」
「チョコレートを致死量まで食べさせられたような気分です」
「それって嬉しいの? 苦しいの辛いの吐きたいの?」
「多分、全部」
「そう」

肯定も否定もせず、彼の手は私の頭をゆっくりと撫でる。まどろむような、心地よい感触に瞼は重くなる。手も足も重力に抗うことなく沈んでいく。

「……幸せ?」

不意に投げ掛けられる疑問。こちらをじっと覗き込む瞳。その奥でゆらゆらと揺れる透明な黒い液体。長い睫毛がそれを少しだけ覆い隠す。背後の照明がチカチカと揺らぐ。仄かな逆光に、その表情は上手く読み取れない。

「……分かりません」

そして閉じる。こぽこぽと、珈琲メーカーが作動している音が聞こえる。それはまるで私の唇から零れていく泡のようで、……手を伸ばしても指の間から逃げていって、どうにもならないのだと思い知らされる。水槽の中に閉じ込められた金魚もこのようなものだろうか。広い世界から隔離され、飼われ、餌を与えられ、死ぬまで出られることはない。逃げ道を絶たれた。

「同じだね」

記憶の中の金魚に私は語りかける。幼い頃、夏祭りでやった金魚 すくい。……紙が破けてしまって自分では一匹も取れなかったけれど。お店の人が一匹だけサービスだよ、と巾着のピニール袋に入れてくれた金魚。私にとってそれは初めて飼う生き物で。毎日おはようとか行ってきますと話し掛けたり。水の中に手を入れて戯れたり。食べ残しのパンの欠片をあげたり。……大切に世話をしてあげたのに。

「何が、同じなの」
「金魚。昔飼ってた」
「ふうん」

まるで金魚のことなど興味がないかのように相槌を打つ。再び目を開くと、やはり先ほどと同じ風景が浮かんでいた。これなら目を閉じていても開いていても何も変わりはしない。私は深く、深く、息を吐いた。

「眠いの?」
「別に、」
「寝てもいいんだよ」
「もう飽きました」
「そう。じゃあ何が欲しい?」
「水、」
「コーヒーでいい?」
「水がいいです」
「……分かった」

彼は立ち上がると、部屋の奥の方へ歩いていった。その向こうには廊下があって、それはキッチンと繋がっていて、

「……ああ」

間取りを覚え込んでしまうほどにここに居続けて。それでもここからは出られなくて。いつになったら。もしかするともう、

――手を伸ばす。天井に向かって。白い白い壁の中で唯一動き続けているソレは何という名前だっただろう。くるくると回って緩やかにこの部屋の空気をかき回し続 ける。それはベッドの上で寝ている赤ちゃんの上で回り続けるアレに少しだけ似ている。何だっけ。確か……メリー……。

「――……」

考えることすら尽きてしまって。ただ日々をしのぐために呼吸をし続ける。食べ続ける。眠り続ける。排泄も、入浴も、欠かされることはなく。TVも見たいと思えば見ることが出来る。音楽も聞きたいと思えば聞くことが出来る。が、ネットやケータイなど外部とコンタクトが取れるものの使用は一切禁じられている。外出許可など、下りる訳もなく。

入院患者もこんな気持ちなのだろうか、とふと思う。けれど面会が許されているというだけでも、この状況よりはマシのような気がする。医者や看護婦と話すことが出来る、ただそれだけでも。……もう何日も何週間も他の人と会っていないのだ。自分のことを心配しているだろう友人、家族の顔が脳裏に浮かぶ。しかしその姿は日々朧気になり。やがて、それは、おそらく――。

窓の外の風景は、絵に描かれた餅のよう。そこに確かにあるのだけれど、決して触れることはできない。林立するビル群はこの手に掴めそうな気さえするというのに。行き交う豆粒のような 人、車、くるくると彩りを変える街の光。そのどれもがまるで目の前に置かれた手の届かないおもちゃのようで。……彼に頼めば、そのうちの1つくらいは持ってきてくれるのかもしれないが、私が望んでいるのはそんなことではない。私が欲しいのは、彼のものでも私のものでもない、

「**ちゃん」

耳障りの良い声が私の意識をドアの方に振り向かせる。けれどそんな声も聞き飽きればノイズになってしまうことを私は知っている。好きな曲だって何度も繰り返し聞き続けていれば右から左へ流れていってしまうように、聞くのも思い出すのも嫌になってしまうように。

「水、持ってきたよ。飲ませてあげようか」
「自分で飲みます」

彼の手からグラスを奪うように掴み取ると、一気に煽るように喉に流し込んだ。……すうっと流れていく冷たい透明な液体が、瑞々しい外気のようで少しだけ身体が軽くなった。

「そんな飲み方して、喉が潤うの?」
「私がどんな飲み方をしようと、あなたには関係ないじゃないですか」
「関係あるよ。だってそれは、俺が持ってきた水だから」

俺のものだよ。関係ある。そう言って彼は口の端を吊り上げた。すうっと細められる双眸。……その途端。自分が飲み下したばかりの液体が、まるで彼の瞳の中で揺れているどろっとした透明な黒いそれであったような気がして……吐き気がした。

「……ぅ、」

だからそんな飲み方は良くないって言ったのに。おいで。彼は薄く笑いながら私の手を引いて部屋から連れ出すと、トイレのドアを開けてその中に放り込んだ。バタンと閉ざされた音が背後から聞こえる。

暗い個室の中、淡く浮かび上がる白いそれに手をつくと、身を乗り出して喉にせりあがってくる違和感を吐き出した。……空咳。息が荒い。生理的なものか、熱い雫がぼろぼろと頬を伝う。吐き出してもなお止まらない悪寒に耐えながら横に手を伸ばす。壁伝いに触れた柔らかい紙の端を引っ張ると、からからと乾いた音がした。からから、からから。適当なところで切って口元を拭い、捨てる。流す。……ここに居る間に、幾度となく繰り返した行為。そして毎回のように、ドア一枚隔てた向こう側には彼が立っている気配。

「……っ」
「大丈夫?」
「も……、だ……」
「何?」

死にたいです。吐き出し切れなかった想いを口にすると、キイ、とドアが開いた。……背後から抱きすくめられる感触。ふわっと漂う心地よい香りはシャンプーの。チリッと走る痛みは喉元の。

「……どうして?」

ゆっくりと滑らされる刃。皮膚が裂けたのだろう、生暖かい液体が首筋を伝って流れていくのを感じる。そしてそれを舐めとるざらついた感触。

「疲れました」
「何に?」

あなたにと答えれば殺してくれるのだろうかと考え、思わず笑みが零れる。微かに伝わる戸惑いの気配。形の良い弧を描く眉は怪訝そうに歪められているのだろうか。喉元にあてがわれたナイフを持つ手にそっと唇を寄せる。舌をちろりと覗かせ、刃に添えられている人差し指の根元に噛み付いた。……抵抗はない。唇を離し、彼の指を一本ずつナイフの柄から外していく。やがて完全にナイフが私の手に渡ると、私は彼の方に向き直った。相対する黒い瞳。

「人生に」
「それは未来ある若者が言うべき言葉じゃないね」
「私から未来を奪った人が何を言っているんですか」
「俺は君の望むことなら何でもしてあげるのに」
「そう言って私を外に出してくれたことがありましたか」
「いいや」
「まるで呼吸をするように嘘を吐きますね」
「人は嘘を吐くものだよ。生まれてから死ぬまでの間に、一度も嘘を吐かない人間なんていない」
「それにしても限度というものがあります」
「そんなの知ったこっちゃないね。大体、吐いて良い嘘の数に制限があるっていうの? ないでしょ? それなら自分の都合の良い時に都合の良いだけ嘘を吐けば良いじゃないか」
「少しは罪悪感というものを持って下さい」
「罪悪感? どうして。だってこれは、みんなしていることだろう? だったら罪悪感なんて持つ必要ないじゃない」
「信用失くしますよ」
「忠告ありがとう。そうだね、精々上手く使い分けるとするよ。……優しいんだね?」

私は、答えない。

「図星だと黙る、か。安直だね。でも悪くない」
「……優しくなんてないです」
「そして否定。謙虚だねぇ、それが美徳だとでも教わったのかな?」
「いいえ、」

あなたが肯定するなら私は否定する。ただそれだけです。……言葉を飲み込んで、私は。切った、

「あ……?」
「さようなら」

私の目の前に赤い色が散る。それはまるで大輪の花のよう、と評するのもいいけれど、あえて主流に逆らって金魚の鱗のよう、と喩えてみる。パクパクと酸素を求めるように開閉する口。吐き出される言葉は泡のように。溶けて、消えた。

(****)

人間になった魚は天国へ行くことができた。ならば魚になった人間は天国へ行くことができるだろうか――。

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