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アマチュアな料理人と多種多様な作ること

日々自分で食事を料理をするアマチュア料理人にとって料理とは、愛情表現だったり、健康のためだったり、美味しいものを食べたいためだったり、はたまた単なるこなさなければならない家事の1つであったりする。ある人は、効率的に料理をするために、1週間のまとめ調理を推奨し、またある人はホットクック や家電調理の活用を力説する。また、ある人は、(それは、マクロビ愛好家なのだけど)ご飯は土鍋で炊くことが重要で、残ったお米の再加熱は、電子レンジではなく、蒸し器である必然性を健康面から説く。グルメ通は肉の旨味を引き出すための低温調理を、エコな人たちは地産地消を、ベジタリアンは畑のお肉こと大豆の利用方法について懇切丁寧に最もらしく解説する。体質面から日本人には和食だとか、中国数千年の歴史に裏付けられた薬膳料理に、話題のグルテンフリー。料理の森は、アマゾンのジャングルかのように多種多様な豊な生体系を形成している。それぞれがそれぞれの魅力で持って、道を指し示すので、不慣れなものはたちまち迷子になってしまう。最後に、悟りを開いたものは、何でもいいから美味しく食事を楽しめる自分を作ることが一番大切だといいのける。

最近また料理の広大なジャングルの奥地まで来てしまった私は、ふと我に変えることがある。なぜ、このジャングルに入ろうとしてしまったのか。答えは、ありきたりでつまらないものだった。健康のため。時折発生する原因不明な体調不良に対処することが、きっかけだった。それなら健康だけにフォーカスして、効率よく料理をこなすだけでもよかったような気もするが、気がつけば、ここ1ヶ月でこれだけの凝ったものを作ってしまった。

・味噌
・醤油
・ヨーグルト
・米粉パン
・生姜シロップ
・発酵あんこ

原因は、朝昼晩の通常料理を作る回数をセーブしたことにありそうだ。料理熱が再発してから勢い余って一度に何品も作ることがある。そうすると数日は料理作りを一旦セーブしないと食べきれなくなってしまう。多分、その時のエネルギーの矛先が、上記にあげた、ちょこっと凝った、普通に買えばよくないか?料理(調味料)に向けられているのかもしれない。そもそもの目的は健康のためだったのに、いつの間にか手段である料理が目的となってしまっている。料理自体が、楽しい。めちゃくちゃに楽しい。美しい料理のジャングルはどこを見ても目移りしてしまう。あっちに行ったり、こっちに行ったりと散策するのが楽しすぎる。大人になって手にした最高のおもちゃだ。やってもやっても終わりがなく、やればやるほど上達する(はず)、そして出来上がったものは自分の体に還元される。

美味しさのあまり感動したり、不出来に肩を落としたり、日々食べ物と向き合うと、毎日ちょっとした心の動きがある。でも、それだったら食事をしている人、全ての人に当てはまりそうな気がする。料理をしなくても食べない人というのは、ほぼいない。でも、食べるだけ専門の時には、確実になかった何かが料理をし始めてから現れてきた。

それは食べ物との無意識な会話があるからのような気がする。もちろん食べ物は何も喋らない。どう調理したら美味しくなるのかなと、それぞれの素材の特性を学びつつ、調理方法を理解していく過程そのものが会話となっていく。カボチャとさつまいもは性質的に代替可能。同じキノコ類でも、えのきはべちゃっと鍋にこべりつきやすい。玉ねぎのみじん切りは失敗すると目に染みる。材料を小さく切りすぎた、デカく切りすぎた、などなど。その時、その時の料理に合わせて、食材の特性と向き合わなければならない。料理によって苦手な食材が美味しく変身したり、好きな食材が、イマイチになったりする。ここでは、料理は、食材と調理方法と私との共同作業の結果となる。食べるだけ専門の時は、好きと嫌いとどちらでもないの、大雑把な感想しかもちえなったものが、自分が料理の一部となるとそうは言ってられなくなる。好きとか嫌いとか、他人行儀なことが言えなくなり、どうするかが問われてくる。

まだ探索し始めたばかりの深い深い料理の森。その中を彷徨いながら、明日はまたどこを散歩しようかなとレシピを眺める。

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