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故郷・石垣島での喜屋武悠生

※僕が早稲田で出会えてよかったと心から思っている先輩、世一さんが文章を寄せてくださったので、転載します。
届いた文章を朝、駅から家に向かう途中で読み、思わず泣いてしまいました。両親絡みの話には、昔から弱いです(笑)

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私は喜屋武くんの大学の先輩にあたります。
と同時に、彼の故郷である沖縄県石垣島・崎枝村での喜屋武くんを知る数少ない人間です。東京での彼は皆さんもよくご存じでしょうから、私は故郷で彼がどのように見られていたか、を彼のご両親を中心に据えて書いてみます。

その前に、私が石垣に住んだ経緯を説明します。
私の奥さんは「星野リゾート」というホテルに勤めています。あるとき、沖縄への転勤の話が生じました。行先は竹富島といって石垣の隣。住居は石垣になりそうでした。それを喜屋武くんに話すと、「石垣に暮らすなら、うちの親が家探しを手伝います」とお父さんを紹介。彼が我々を案内してくれた中で、私たちが最も心を惹かれたのが彼の住む村……すなわち喜屋武くんが育った村、崎枝でした。村に折よく空き部屋があったことも手伝い、私たちは彼の故郷で数年を過ごすことになりました。

私は当初、喜屋武くんは村の自慢の青年だろうと考えていました。
沖縄の離島から早稲田に合格し上京する……そんな難題を達成した喜屋武くんを、故郷の人々は誇らしく思っていると。しかしそうでないらしいことは早期にわかりました。私が村の人々の口調から見てとった「喜屋武悠生像」は、「東京に出ていったものの何をやっているか分からない、どちらかというと困った人間」のようでした。

その理由は、彼が当時定職に就いていなかったことにあります。
喜屋武くんをめぐる言説の中で、最も多く聞かれた言い草。それは「早稲田まで行ったのに、就職もせず何をしてるんだ」というものでした。私学である早稲田の学費を五年分……留年も含めて……捻出したご両親へのねぎらいと共感。そして、にもかかわらず、「やりたいことが分からない。場を作ることに興味がある」と漠然とした二十代を生きていた喜屋武くんへの疑念・批判が村にはありました。

そしてそれを形成したもう一つの要因は、喜屋武くんのご両親の振る舞いに他なりません。
喜屋武くんの父親は、村内でシマさんと呼ばれていました。
土方を中心に肉体労働で二人の子供を育て、長男を東京の私学に行かせた。賃金の安い石垣でそれを成し遂げた苦労は、働く人なら誰もが理解できるかと思います。「いい加減な男さ!悠生はよ」と彼は飲み会の席で怒りました。「どれだけ大変か!五年間の学費を土方で稼ぐことが。それをあいつはよ」。これは村の飲み会の終盤の定番シーンで、結局は他の村人がシマさんをなだめます。「まあまあ」。しかしこれに輪をかけて厳しい態度を取っていたのは、喜屋武くんの母親のみつるさんです。

父親のシマさんと違い、みつるさんは飲み会に来ることが少なく、そのぶん村の人と息子の話をする機会は少なかった。しかし喜屋武くんが帰省した際、息子へのあたりはいつもハードでした。
「いつまでフラフラしてるつもりなの」。「周りに人がいるからって浮かれるな。あんたが何かできるようになったわけじゃない」。こうしたことを直接本人に言っていました。

私はそれを聞くと何とも言えない気持ちになりました。私は、喜屋武くんが「まだ何者でもない」ながらすでに「彼だけの何か」を身につけつつあり、有形無形の様々な喜び・つながりを東京で生み出していることを知っていました。しかしそれは石垣では伝わらず、認められない。
「あいつは就職に失敗したのか?」
「ただ東京で競争に敗れただけなんじゃないのか?」
実のところ、それは定職に就かずに小説執筆に全振りし、にもかかわらず成果を出せていない私にも向けられていた視線でした。「就職して、文句の出ない大人になるだけが人生かよ?」という反発。しかし、親や他人にその視線を向けられたときにそれを跳ね返せない自分の心。稼げていないという引け目。二十代は終わりに差し掛かり、節目といわれる三十歳は迫ってきます。

要するに私と喜屋武くんは、「親に苦労させて大学まで行ったのに、職に就いてすらいない中途半端な人間」と見られていた。「やりたいことがある」「夢に向かっている」そうした言葉は、タフに生き抜いてきた大人たちを説き伏せる力を持ちませんでした。石垣に住んだ期間、私が喜屋武くんと直に話す機会は東京時代より減りました。しかしひそかな共感、「他人事ではない」感じはむしろ強まったように思います。

ただ、今になって当時を振り返り、思うことがあります。
それは、あの時期のシマさん、みつるさんの喜屋武くんへの厳しさは、もしかしたら息子を守るためのものだったのでは、ということです。
想像してほしいのですが、村の人が「あいつどうなんだよ」と疑念を抱いている青年がいたとします。そのとき彼の親が「いや、あいつは頑張ってるんだよ」「目には見えん良さがあるんだよ」と庇ったらどうなるか。「親が甘いから息子もああなる」「息子もそれに甘えてる」となる可能性が高いように思います。逆に、息子の話が出ると親が誰よりも厳しい言葉を吐く。本人にも強く言う。その結果、「あいつはよくわからんけど、まあ、親もしっかり言っているし」「まあまあそこまで言わんでも」という風潮が生まれる。いま思えば、二人は「他の誰よりも厳しい態度を息子に取る」ことで、それ以上の矛先が喜屋武くんに向くことを防いでいたような気もします(あくまで推測です)。

では、ご両親は本当に喜屋武くんに失望していたのか?
そうでないことは、私の眼には明らかでした。特に父親のシマさんがそうでした。彼は公の場で息子に強く当たりつつ、近しい人や喜屋武くんをよく知る人には、「あいつは面白い男だよ。」と言っていました。彼はそれを言うとき、いつも少し下を向き、はにかむような、苦いような顔をしました。人前では褒めないけれど、シマさんが息子を認め、期待していることは明らかでした。
それに比べ、みつるさんは何を考えているか分かりませんでした。彼女はシマさんがそう言う時も容易には同調せず、「ふん。面白さで生きていけたら世話ないよ。」といってクールさをキープしていました。結局私は一度も、彼女が喜屋武くんを褒める場面に出くわさなかったように思います。

ただ、そんなみつるさんも、シマさんと違う形で喜屋武くんを支持し、応援していたことは疑いありません。みつるさんは、いわゆる「私たちの母親の一人」にしては例外的なほど、様々なものへの美意識が高く、音楽・美術などカルチャーへの造詣が深い人でした。喜屋武くんが「SWITCH」という雑誌で働きだしたとき、その価値を村で最も理解していたのはみつるさんでした。喜屋武くんのつながりが学生のレベルを越え、漫画家の新井さんを含むクリエイターへ伸びていった時、それに深い興味を示したのもみつるさんでした。

喜屋武くんの努力もあります。
彼は友達を石垣に連れていくだけでなく、フェイスブックを始めとしたSNSで近況を綴り、みつるさんに伝えていました。喜屋武くんの良さ、は一言では表しづらく、エピソードを多数重ねると見えてくる類のものです。情報の蓄積の中で、みつるさんの喜屋武くんへの眼差しが、「何をしているか本当にわからない」から、「いまだによくわからないが、何かしら意味のある道を歩み始めているのではないか」に徐々に変わっていったように私には思えます。
ただし、それはみつるさんが、喜屋武くんが社会的な成果を出したから彼を認めた、ということではありません。彼女は最初から喜屋武くんが大好きでした。それは喜屋武くんが実家に現れるときのみつるさんの表情の輝きや、東京に戻るときはいつも空港まで送っていくことからも明確でした。こうしたことは親子当事者間ではしばしば見えづらいものですが、第三者からは歴然と目に入ります。

それから四年が経ちました。
喜屋武くんはポルトを軌道に乗せ、二店目の計画もあると聞きます。GRIDではコミュニケーターとして活躍し、イベントを多く開催しています。皆さんがご存知の「いわく言い難いキャン的な何か」は今や目に見える形をとり、彼はこれから、東京で何かのカギを握る人間になっていく予感さえ漂わせています。

この状況を、シマさん、みつるさんはどう思っているのか。どのような顔でいま、息子を語っているのか。なんとなくですが、今も二人は、喜屋武くんを人前では褒めていなそうな気がします。「あいつはいい加減な男だよ」。「面白さで生きていけたら世話ないよ」。飲み会では今も五年分の学費が定番として語られているのかもしれません。しかし二人の「楽しみ」と「心配」の配分はおそらくかつてと逆転していることでしょう。「心配」は今やメインカラーではなく、「楽しみ」のスパイスのようなものになっているかもしれません。

「悠生は面白い男だよ。」それを言うシマさんのはにかみ……私は石垣を去った後もふと、その表情を思い出すことがありました。しかし今もシマさんがそれを言っているとしたら、その表情は、私が知っているそれとは少し趣が違っている気がしてなりません。

▪︎世一英佑(よいちえいすけ)
1985年兵庫県生まれ。早稲田大学在学中に、講義で出会った喜屋武悠生と親交を深める。三十歳で再び上京後は出版社、食器の輸入代理店で働きながら執筆を継続。2018年ポプラ社小説新人賞、2020年すばる文学賞と二作続けて最終選考に進む。現在書いている三作目でデビューができたら、受賞のお祝い会は喜屋武くんが開いてくれる予定となっている。
 

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