Take the bull by the horns. Cp-2

 重くのしかかるように空を覆う厚い雲と、肌にまとわりつくような空気感。まるで街全体の淀んだ感情が、空間に溶け出しているかのようだ。柄にもなく感傷的なことを思いながら、ナタリア・ククーシュカは、療養中である夜八の住むマンションを訪れていた。
 環境課員の社宅として提携されているためか、関連する様々な企業の設備だのセキュリティだのが各々に詰め込まれている。いつだったか、メ学からも四物をつかった屋上緑化のテストが始まるのだ、という話を夜八がしていたのを思い出した。
 そんな取ってつけたようなツギハギ感に間怠さを感じつつ、マンションのセキュリティサーバーへ電脳接続したナタリアは、夜八の部屋のインターホンへコールを入れた。呼び出し音が電子の空間に響く。がしかし、よくよく考えれば夜八はつい先日に電脳洗浄を終えたばかりで、しばらくは電脳空間への接続に制限がかかっている。遅まきながらそのことに気づいて、基底現実側のチャイムを鳴らそうと手を伸ばすと、同時に内側から扉が開けられた。出迎えたのは予想外にも夜八ではなく、何故か包丁を宙に浮かべたエプロン姿の瑠璃川ラズリであった。


「ナタリア先輩ごめんなさ~い!電脳空間側での通知は気づいたんですけど~、取り方がわからなくて~...。」

 どうやらマンションの電脳関連のセキュリティの操作に手間取ったらしい。瑠璃川は焦った様子で靴も履かずに――浮いているので問題ないが――玄関まで出てきていた。

「...あ、あぁ、それは、全く構わないんだが...、なぜ刃物...?」
「え?あ~!?つい無意識に持ってきちゃいました~!えっと、変な意味はなくて~...」

 弁解をする瑠璃川の背後をよく見ると、包丁に果物の皮のようなものが張り付いて浮いている。おそらく瑠璃川も夜八の見舞いに来ていたのだ。それでリンゴか何か剥いているときに、不慣れな電脳側の通知を受け取ってしまったといったところだろう、とナタリアは察した。

「あぁ、いい、なんとなく想像がついた。それより、夜八の調子はどうだ?もう起き上がれるのか?」

 治療施設に運ばれた当初は、昏睡と錯乱を繰り返して、意思の疎通すら難しかった。エンジェルダストまで使おうとしていたと聞いたときは、流石に肝を冷やしたものだ。

「調子は...たぶん良くなってきてはいると思いますよ~...?寝起きはちょっと混乱してた様子だったんですけど、しばらくしたら落ち着きましたし~。今は気分転換に外の空気が吸いたいって、屋上にいます~。」
「そうか...。」

  出てきたのが瑠璃川だけであったこともあって、まだ具合が悪いのかと気がかりだったが、順調に回復の兆しを見せているようでナタリアは一息ついた。

「ナタリア先輩~、よければ様子見がてら、夜八ちゃんを迎えに行ってもらえませんか~?も~すぐリンゴ剥きおわりますから~。」

 そう言うと瑠璃川は、無駄にふわふわと回りながら中へ戻っていく。

「あぁ、そうだな。」

 なんとなく感じる瑠璃川の気遣いに、多少のむずがゆさを感じながら、ナタリアは屋上へ続く階段へと向かった。



 曇り空が抱えていた水気が、ついに溢れ出したかのよう雨粒がこぼれ始める。そこかしこで響いていた喧騒は止み、やがて全て音を雨が吸い込んでいった。遠くの景色は徐々に白んでゆき、空を覆う雲はより一層に薄暗さを強めている。そんな中、屋上に敷かれた緑だけが艶やかさを増し、本来の色を取り戻したかのように鮮やかな色彩を放っていた。

「風邪引くぞ。」

 階段の出口には併設される形で、屋上の設備を管理するための簡素なプレハブが建っている。その少し出っ張った軒下、スタンド灰皿と共に置かれた小さなベンチで、夜八は膝を抱えてうずくまり、排水溝で渦巻く雨水をぼんやり眺めていた。

「ナタリア先輩...。」

 いつのまにか、灰皿の隣にもたれかかったナタリアが声をかけながら、なれた手付きで煙草に火を入れる。

「...戻らないのか?」
「...ちょっとまだ、その、気恥ずかしくて...。」

 夜八の横顔をよくみると、下まぶたが少し腫れていた。寝起きは少し混乱していた、と瑠璃川が話していたのを思い出す。ナタリアが、そうか、とだけ相槌を打つと、吹き出した紫煙が霧のように雨空へと立ち上った。


 濡れた植物の匂いに混ざって、煙草の匂いが香のように微かにただよう。頭上で弾ける雨粒だけが、音を支配する世界。静寂を破ったのは、夜八の絞り出すような呟きであった。

「...私、どうすれば良かったんでしょう...。どうすれば、救えたんでしょう...。」

 そう言って夜八は、抱えた膝に顔を寄せる。救う、だなんて傲慢なことだ。たとえ今、あのときに戻れたとしても、この手の届く領域は変わらない。どうすることもできないことは、夜八にもわかっていた。それこそ、ほとんど違わぬ結果に行き着くだろうと。

「どうして、私は生きてるんでしょう...。」

 万全ではなかったかもしれないが、ありったけの力を振り絞っていた。状況の全てが紙一重で、余裕など一欠片もなかった。もし、誰かを救えたのだとしても、代わりに別のなにかがこぼれ落ちてしまう。考えても答えの出ない様は、まるで終わりのない渦に流されているようかのだった。


 次第に雨足は弱まり、驟雨はやがて霧雨へと変わっていった。西方の空では、雲の切れ間から、光の柱が放射状に降り注いでいる。ナタリアは最後の一吸いを上へ向かって吹き出すと、うつむく夜八の頭上に手を添えた。

「どうしたら良かった、なんて私にもわからない...。」

 夜八は不意に添えられた手に少し驚き、思わず顔を上げる。薄くなり始めた雲をもれる陽の光が、空中に漂う細かい水滴に反射してまばゆい。

「それでも、背負うもん背負って、生きてくしかないだろ。」

 依然、空を見上げたままの、ナタリアの表情は伺いしれない。しかし、夜八にはそれが、ナタリア自身に言い聞かせているようにも見えた。

「それに...、救えてるよ、お前は...。」
「...そう、でしょうか...。」

 ナタリアはそれだけ言うと、立ち上がり、吸い終わった煙草を灰皿にねじ込んだ。気がつくと雨は上がっており、街のあちらこちらで人々が動き出す気配が漂ってくる。夜八も立ち上がって伸びをすると、大きく深呼吸を一つ。すると、マンションの下へ続く階段の扉が勢いよく開いた。

「夜八ちゃ~~ん、ナタリアせんぱ~~い!遅いですって~~~!リンゴ剥けたんですって~~~~!」

 待ちかねたといった様子で、瑠璃川が夜八に向かって飛びついてきた。そのまま夜八の腕をつかまえて、階段の方へと引っ張ってゆく。

「わ、ご、ごめんってるりちゃん...!」
「元気、ちょっとはでてきたみたいですね~。」

 ほとんど引きずられるかのような勢いで瑠璃川に連れられていく夜八の横顔には、この日初めての笑みが浮かんでいた。





 二人が階段の奥へと消え、誰も居なくなった屋上で一人、ナタリアは二本目の煙草を取り出す。濡れた地面が反射する陽光の刺すような眩しさが、薄暗く渦巻く心の内を咎めているようで、思わず口から言葉がこぼれた。

「救えてるさ...、私と違って...。」

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