冬の桜(小説)

風が強く吹いた。ニュースによれば寒い朝だった。しばらく散歩をしていた私は、自らの身体が発熱しているために寒くはなかった。空は青く澄み切っていて、太陽の光が燦燦と降り注いでいる。その熱エネルギーは途方も無いもので、少し汗ばむくらいであった。12月もまだ半ばであるから師走といっても平時と大差ない。静かな冬の午前である。

買い物をした。納豆と豆腐と林檎をふたつ買った。林檎は津軽ではなく信州のものだった。紅い玉、ふたつ。

街路樹の葉が全て散り去って、複雑な枝をあからさまにしていた。いったい何の木であったか。木を見て深く考えずとも記憶している。桜である。春にはその栄華を誇った日本の女王である。桜は秋の紅葉も美しいが、それも散ってしまって今は裸にされている。春の盛りには見事な花が咲き乱れ、歩く人々の目を奪っていた。短くも美しいその季節。

私は今度は農家の無人販売所に寄ってねぎを買った。太くて立派なねぎである。茎はあくまでも白く、葉は緑である。私はそのねぎにある種の美、例えて言えば生命の美のようなものを感じ愉快に思った。

刈田に沿った道路を歩いて行くと、老婆の手を引いて歩く中年の女性が向かってきた。老婆と言ってもきちんとした着物を着ていて背筋も伸びている。ただ歩き方には難があった。歩幅が極端に狭いのである。中年の女性が老婆に何か話しかけている。こちらの女性もどことなく上品で高級な感じである。女性は顔を上げて私を見ると「あら」と言い、続けて「良いお天気ですね」と言った。私はそれを散歩で偶然出会う人が交わす特に意味のない挨拶と取った。「本当にね。風が強いですけどね」と私は答えた。女性は少し眉を下げて困ったような表情をしたが、すぐに微笑んで軽くお辞儀をした。「それでは失礼します」と女性は言った。「失礼します」と私も言った。すれ違ってから、初めて私はその二人に見覚えがあることに気付いた。老婆はかって町でも評判の美人であり、華道の先生か何かであった。常に着物で歩くものだから目立って仕方ない。それが少し度を越した美人だというのだから、町中知らないものはいないのだった。それにしても、もう何十年と会ったことがなかった。老婆のあの固い表情、精気を吸い取られてしまったかのような乾ききった肌。彼女があの美しく溌剌とした誰もが目を奪われたあの人とは最初はとても気づかなかった。中年の女性のほうは老婆の娘で私の中学の同級生であった。こちらの方は中の上と言った感じで、学校でもそれほど目立つほうではなかったが、非常に落ち着いた穏やかな娘であった。あくまでも噂ではあるが嫁に出て子を作らずに出戻ったという話である。だとすると、意味のない挨拶ではあったが、最初の「あら」だけには意味があったのである。「あら」ということは私を知っているということなのである。気付かなかった。全く気付かなかった。振り向くと二人はまだゆっくりと歩いていた。老婆の背中が小さく見えた。風がまた強く吹いた。

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