自分とよく似た他者の存在を、遠くに感じた瞬間

米津玄師の「サンタマリア」という楽曲のMVが、狂おしく好きだという話。

この楽曲では、ガラスの壁を隔てて話をする2人の人物が描かれる。2人は一つの面会室にいて、手のひらを合わせられるほど近くにお互いの存在を感じていながら、互いに触れ合うことができない。この2人の片側が「僕」で、彼の視点から歌詞が語られる。

ー 今呪いにかけられたままふたりで
いくつも嘘をついて歩いていくのだろうか
(中略)
様々な幸せを砕いて 祈り疲れ
漸くあなたに 会えたのだから ー

こうした歌詞とMVに映る彼の姿から、彼はひどく傷ついていることが伺える。その身はくたびれ、深い喪失感と、耐え難い時間の重みを経験した者特有の疲労感を身体に滲ませている。「様々な幸せを砕いて 祈り疲れ」という歌詞から私は、その傷を、ある人を真剣に想いながらその愛を受け入れてもらえなかった苦痛、愛されないまま突き放されもせず、緩やかに精神が死滅していくような類の摩耗と読んだ。曲は始まりから、精神の最底部を見るまでに傷つき切った人間の、その内部の逆説的な凪と優しさを含んで音を鳴らしている。

そんな深い悲しみを知った彼は、今「あなた」と出会った。

ー 一緒にいこう あの光の方へ
手をつなごう 意味なんか無くたって ー

「意味なんかなくたって」の部分に彼の内部になお尾を引く傷を感じるけれど、それでも彼は人を愛することをやめず、あなたと歩いていこうと歌う。

この曲の世界観が私はとても好きなのだが、好きを超えて雷に打たれるような共感覚にしばらく動けなくなったのが曲のラスト、まさに音が消えるその瞬間だった。

このMVでは幾度となく壁を介して向き合う二人が描かれる。また、歌詞ではいつかこの壁は消えるだろう、呪いが解けるだろうと歌われる。そしていよいよ曲が終わろうとするその瞬間、再び壁を挟んだ2人の絵が大写しになり、そして音が消えるとともに壁ではなく2人が消えるのだ。

あとにはただ真っ白なページに黒い線で表現された壁が残るのだけど、音の優しさにも助けられ、そこには一筋の悲壮感も不安も残らない。そこにあるのは、人は他者の主観を共有できない以上死ぬまで孤独であり、でもそれは絶望ではないのだという思い、言葉や仕草を交わしながらその決して交わらない互いの主観を寄せていくこと、それこそがコミュニケーションなのだという切実な思いだ。究極の定義において人と人は理解し合えないけれど、それでいい、MVで壁に少しずつ穴が空いて光が差したように、他者を想い丁寧に言葉を交わせば人は一緒に歩いていくことができるのだという希望が素直に表現されている。

このMVのラストに触れたとき、私は深い水に体が沈んでいくのを受け入れるように、体が動かなくなり静謐な余韻に浸されるのを感じた。自分がコミュニケーションについて思うことが、音楽と絵の形を借りてこんなにも鮮やかに表現されている。もちろんこれは一鑑賞者たる私の解釈に過ぎず、米津さんの意図とは違うかもしれない。そういう意味で勝手に私が共感覚を抱いただけなのだけれど、それでも自分に似た他者が確かに遠くに存在することを実感したような気がした。

こういった、好きを超えて心に刺さってしまう音楽や小説は、自分の心とあまりに近すぎるせいで却って人に話せなかったりするのだけれど、少し前に、誰にも読まれなくていいやと思って書いてみた記事を読んでくれた方が幾人かいてくださったので、なんとなく背を押されるように再び筆を取ってみました。どうしようもなく言葉や音楽がなければ生きていけない人というのがこの世界にはいて、そうした人の一人にでもこの記事が読まれたら嬉しく思います。

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