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映画『PERFECT DAYS』の平山(役所広司)は、フェイクかガチか?

『PERFECT DAYS』への批判

映画『PERFECT DAYS』は、見る人によって評価が分かれる作品である。トイレ清掃員として働く男、平山(役所広司)の生活を描くこの映画だが、肯定する意見と同等に批判も多い。例をあげれば、映画そのものが広告的だとの指摘がある。曰く、劇中で平山が清掃するのは「世界的に活躍する16人の建築家やクリエイターがそれぞれの個性を発揮して、区内17カ所の公共トイレを新たなデザインで改修する、渋谷で20年から行われているプロジェクト『THE TOKYO TOILET』」で実際に作られた美麗なトイレであり、このプロジェクトを推進する柳井康治氏(ユニクロ社長の次男)が、映画『PERFECT DAYS』のプロデューサーでもあるというのだ*1。風呂なしの安アパートに住む、薄給のトイレ清掃員のつつましやかな暮らしを肯定的に描く映画の製作者が、4兆円以上の資産を持つ大富豪一家の次男坊ときては、納得のいかない方々も多いだろう。「こんなふうに生きていけたなら」とか言う前に、その4兆円で寿司でもおごってくれよ。かかる指摘はじゅうぶん理解できる。

しかし、今回の記事ではそうした論争がしたいわけではない。私の興味は「平山はガチかフェイクか」のみである。他にはあまり関心がない。「平山という男は、本気なのか否か」について、私は語りたいのだ。というのも同作の感想を探していると、平山はある種のファッションや遊び、冒険のひとつとして、この生活をゲーム的に楽しんではいないかという指摘が散見されるためである。劇中、平山は過去に、経済的にも恵まれた特権階級の一族に属していたらしいことが示唆される(運転手つきの車に乗った妹〈麻生祐未〉が訪ねてくる場面)。彼はそうした豊かな暮らしを捨てて、風呂なしアパートで暮らしているのだが、実はそれすらもつかの間の遊びで、いずれ元の暮らしに戻ったとき、周囲に語って聞かせるための武勇伝づくりなのではないか、というのだ。ユニークな指摘だと感心した。私はそこまで思いつかなかった。

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「日々の生活を美しくする」こと

曰く、平山はおそらく、その気になればすぐに特権階級の世界へ立ち戻ることができるだろうし、このトイレ清掃員の立場は、無頼派を気取ってみたい金持ちが道楽として気まぐれに選んだ結果にすぎず、あくまで一時的なものである。その証左に、彼はまるでインスタグラマーが「映え」を意識するように、あえてカセットで音楽を聴いたり、文庫本を読んだりしているではないか、というわけだ。たしかに劇中の彼の暮らしは、質素ながらも妙にスタイリッシュで、つねに「映え」ている。フォークナーを読み、パティ・スミスを聴く彼は、海外文化に精通している一面もある。つまり平山は、まるでテレビ番組のチャレンジ企画「1ヶ月1万円生活」に出演するタレントのごとく、安全装置つきで、この暮らしをゲームとして遊んでいるだけであり、ガチの思想信条としてこの職業や生活を選択していないのではないか、と多くの人が疑問を持っているのだ。

私は、平山が本気でこの暮らしに身を捧げると決めた、根っからのハードコア清掃員なのか、やがて特権階級へ戻っていくであろう、気まぐれのなんちゃって清掃員なのかは判別がつかない。そして、どちらでもあまり変わらないと思っている。というのも、平山は日々の生活を美しくするよう、つねに細部に気を配っている様子がうかがえるが、「日々の生活を美しくする」とは、明確な目的意識に基づくもの、つまりは生活そのものを演技として優雅に変化させていく作業であるためだ。生活を美しくするとは、生活がほんらい粗雑でだらしないものであることを認めた上で、ある種の虚構や演技によって、美しさを獲得しようとする意思であるし、そこには確実にゲーム性や、様式へのこだわりが宿る。吉田健一的な思想、すなわち「つねに細部に気を配り、生活の美しさを保つ」ことと「映えを意識する」ことのあいだには、客観的に見てほとんど差異がない。生活を美しくしようと心がける人の所作は、どこか演技的になり、他人からはフェイクであるように見えるものだ。だって「美しい生活」そのものが虚構なのだから。私にしても、部屋でお香を焚くとき、内心ちょっと恥ずかしいなと思いながら焚いている。でも、お香っていい匂いだし、そうした作業なしでは生活は美しくならない。

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フェイクであることからしか生まれないなにか

思うに人は、演技から逃れられない。あらゆる行動は演技に近い部分がある。たとえば、心から無条件で妻を愛し、つねに優しく接することが自然にできる夫Aと、妻の欠点に苛立つこともありつつ、決して口には出さず、接する際には優しきパートナーであることを努力し続けた夫Bがいたとしよう。ふたりの夫の、妻に対する行動はまったく一緒である(ただ、内面だけが違う)。この場合、夫Aと夫Bのどちらがより上であるとか、どちらが本当の愛を持っているかを問うのは無意味であると私は思う。AもBも、共によき夫なのだ。ここで、夫Aはガチで、夫Bはフェイクだと指摘するのはあまり意味がないし、誰も幸福にならない。というのも、人がよりよく生きようとするとき、なんらかの形で演技的にならざるを得ないし、ある行為をしている人物がどこまでが本気でどこからが演技なのかを見きわめることは、本人にもむずかしいと思うためだ。

あるいは平山は、多くの方の指摘どおりにこのなんちゃって清掃員の生活に飽きて、かつての特権階級の場へ戻るのかもしれないけれど、それでも私は、平山が「生活を美しくしたい」と感じる気持ちそのものがとてもよく理解できるし、その心のありようには共感してしまう。私自身も、自分がフェイクだと感じながらなにかをすることが多く、だからこそ自分が好きなものにこだわる必要があると決意するのだけれども、そもそも平山がガチかフェイクか、という問いそのものを無効化したいし、フェイクであることからしか生まれないなにかが、人生を豊かにするのではないかとも思っているのだ。

*1 思い出してみれば、たしかに、平山の作業着にも「THE TOKYO TOILET」のロゴが描かれていた。プロダクト・プレイスメントとはこのことだろうか? 実際、彼の清掃するトイレは、ときに滑稽なほど瀟洒だ。また、本当はもっと不快であろうトイレ清掃の実態を描いていない点や、結局は新自由主義的な競争を肯定してしまっているようにも見える作風、また「どうせ滅びるのだから、せめて美しく滅びよう」というネガティブなメッセージととらえられる可能性などについても言及されることが多い。かかる理由から『PERFECT DAYS』を肯定しがたい、という意見はよくわかる。私は好意的に見たのだけれど、それでも多少ひっかかる点はある。

【がんばって勉強して書いたスキンケア本です】

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