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蓮實重彥『ショットとは何か』(講談社)

言語化しにくい「ショット」とは

いいタイトルの本だと思った。ずっと知りたかった映画の謎がここに明かされているぞと、読者を誘うようなタイトルである。そもそもショットという概念を知ったのが蓮實重彥の著書であって、私自身、映画を評する際にも「あの場面のショットが」と口にしたりするが、ではショットについて明確に説明できるのかというと、これがなかなか難しい。イメージとして頭のなかにはあるのだが、具体的に説明しようとすると言葉に詰まってしまうのだ。私はショットについて何が言えるだろうか。カッコいい画面。ストーリーや作品の全体像から逸脱するくらいに特別な力を持った、パワフルな画。一時停止した場面をそのままポスターにして部屋に貼りたくなるような、美しさを感じられる構図……。どうにか説明しようと言葉をひねり出してみたが、どれもしっくりと来ない。

インタビュー形式の本書は、著者の幼少時代から、どのような映画を見てきたかを回想しつつ映画史を俯瞰し、ショットの概念についてさまざまな作品を取り上げながら語っていくテキストである。「1940年代、下北沢や笹塚にあった映画館に通っていた。入場料は99円だった」といったいっけん遠回りな内容は、映画史を回顧しつつ、ショットとは何かという本書の問いに近づいていくための効果的な語りになっている。とても複雑なテーマであり、さまざまな例を挙げながら、深く考えなくては理解が難しいのだ。映画にはショットというものがある。蓮實重彥にとってさえ、それは言語化するのが難しい。しかし、ショットを意識しながら映画を見ることは、いくら考えても解き明かせない映画の謎に少しでも近づく手がかりなのだ。

『たそがれの女心』(1953)
「ショットが撮れるとは、審美的に凝った画面を撮るということではまったくなく、それぞれの場合に応じて、それしかないという決定的な構図のショットが撮れるということ」

映画とは「物語をたどるもの」なのか

私はショットを「審美的に凝った画面」だと思い込んでいて、この記述を読んだときにはなるほどと納得すると同時に、自分の浅い理解が少し恥ずかしくなった。しかし、すぐれたショットは物語を伝えるという行為から逸脱する場合があるのではないか、という私の考えに近い記述も見つかった。たとえば「映画で物語をたどることと画面を見ることととは、まったく別の作業だということ」であり、「誰もが物語をたどることが映画を見ることだと勘違いしている」という蓮實の指摘は、とてもおもしろい。ショットは「画面を見ること」でしか発見できない何かではないか。彼は「演出の映画」(エリア・カザン)と「撮影の映画」(ニコラス・レイ)という呼び方をしているが、ショットとはまさしく撮影であり、あらすじがどう展開するかとはまったく別の部分で観客を魅了する。サイレント映画が重要なのは「画面を見ること」の比重が大きいためであり、そこには演出ではなく撮影の力がある。スクリーンに映写される、いわくいいがたい、途方もない何かがある。

蓮實は『はなればなれに』(1964)のダンスシーンを例に挙げつつ、「ショットが作品そのものから解放されており、同時にわたくしたち自身を映画からも解放してくれるような思いをいだかせてくれる」と語る。私の好きな記述である。映画を見ながら、映画から解放されるとは、実に不思議な体験ではないだろうか。それが可能になるのが、すぐれたショットの力なのだと蓮實は説く。たしかに映画を見ていると、ストーリーや場面の説明、話の流れなどとはまったく無関係なところで、映像そのものの力強さに圧倒される瞬間がある。あの驚くべき体験。そこで観客が感じる強度こそがショットの正体ではないかと感じるのだ。

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