雁須磨子『あした死ぬには、』(太田出版)
42歳の女性3人の暮らし
雁須磨子のマンガ『あした死ぬには、』(既刊1~3巻)は、42歳の女性3人の暮らしを描いた作品である。映画宣伝会社に勤務するも、心身の不調に苦しむ独身の本奈。夫の単身赴任を機に、パートで働き始めた小宮。過去のトラウマを抱え、実家にひきこもる無職、独身の鳴神。42歳のいま、元同級生だった3人はそれぞれ、どのように日々を過ごしているのか。彼女らの経験する不安、落胆がとても他人事には思えず、読みながら苦しくなって何度もページを閉じてしまった。どの人物のエピソードもリアルで重く、どうすれば平穏に暮らせるのだろうと考えずにはいられない。
本奈が胸の激しい動悸で目覚める場面から、本作は始まる。このままでは死んでしまうのではという恐怖におそわれ、あわてて病院へ行く本奈。体調が原因で仕事を休んでしまうこともあり、42歳の本奈は、これまでのような働き方では身体がついてこないと感じている。結果、働き方を変えるために、映画宣伝会社を退職して独立する道を選んだ。かかる不調は、どうやら更年期障害が原因らしい(私は更年期障害に対する理解が足りておらず、50代以降の話かと思い込んでいたのだが、この本を読んで実情を学ぶことができた)。健康問題にくわえて、目減りする貯金、がん治療をする知人と、本奈の周辺には暗い影が多くなってくる。これが40代かと陰鬱になる本奈。
体調の不良は精神の不安定さにもつながっていき、夜はうまく眠れない。結果、睡眠時間の乱れから仕事に遅刻してしまう場面も痛々しい。目が覚めて完全に遅刻したと気がつき、「体はずっしり冷たくて 今もうこの時 消えてしまいたい」とひとり考える本奈は、これからどう仕事を続ければいいかの岐路に立つ。身体の不調でいうと、私自身はまだそこまでの不安を抱えてはいないのだが、それは単に私が自分の体調に無頓着なだけかもしれないし、私とて実際は決して万全とはいえない状態である。本作においてもっとも中心的な人物である本奈が、身体の不調を抱えた人物であることは、40代の女性が抱える健康面の不安について学べるとてもいい機会になった。
言葉のナイフが刺さった瞬間
一方、夫の単身赴任を機にパートでレストランの仕事を始めた主婦の小宮が経験するのは、「おばさん」扱いの居心地の悪さと恥ずかしさだった。忙しい職場で髪が乱れてしまい、ヘアスタイルを気にする小宮に向かって、同い歳のパート仲間の女性は「髪ねーどうしてもぺちゃんこになっちゃうよのね」「誰もこんなおばさんの頭なんか見てないわよ」と明るく声をかける。同世代ならではの気軽な冗談のつもりだったが、「おばさん」の言葉にショックを受けてしまう小宮。パート仲間の女性は「やだっごめんね、一緒にしちゃ〜ダメよね!!」とあやまってくるが、小宮はただ呆然となり、うまく自分を取り戻せないままだ。また別の日には、店に来ていた若い女性客から「オバチャン」と呼ばれて狼狽するが、20歳のアルバイト青年に「小宮さんの事、おばさんとか全然思えないですよ」とフォローされる。
ここで雁は、言葉のナイフが胸に刺さった瞬間の衝撃を逃さずに描写する。ハンサムな若者に「おばさんとは思えない」とフォローされることで、小宮の感じる恥ずかしさ、情けなさはむしろ二重、三重に強くなっていく(小宮はパートを始めた日から、若き青年にかすかなときめきを感じていたのだ)。周囲のなぐさめの言葉は、どこか腫れ物に触るような痛々しさがあり、彼女はただ俯いて何も言えずに黙ってしまうのみだ。これはさぞや恥ずかしい経験だったろうと、私は深く共感してしまった。こうした場面での小宮の顔面蒼白、表情の喪失を、雁は読者へこれでもかと提示する。「身をもってはじめて痛感することってあるなあ ほんのちょっとの態度、応対、ふりむかれ方」。
自分はもう若くない。周囲も自分を年相応に扱ってくる。本当ならそのことに慣れていなくてはいけないのに、「おばさん」呼ばわりされるたびに心臓が止まるような衝撃を受けて、小宮はひどく落ち込んでしまう。そんな自分を「めんどくさい」とも感じ、さらにやりきれない気持ちになるのだ。19歳の娘がいる主婦が「おばさん」と呼ばれるなどたいしたことじゃないと、いくら自分に言い聞かせようとしても、内面からこみ上げる恥ずかしさを制御できないことに、小宮はほとんど困惑してしまっている。パートからの帰り道「なんかもう今 死んじゃいたいな」と彼女は思う。ここで小宮の感じるどうしようもない恥ずかしさを、私は知っている。私は男性だが、同じように言葉のナイフが刺さり、声が出なくなってしまった状態を何度も経験したことがある。
八方塞がりの状況
かつて働いていた職場で不倫騒動を起こしてしまい、退職してからは自宅にひきこもっている鳴神は、パチンコ屋に通うくらいしかやることがない。彼女は高校時代、公園のベンチに座った汚れた身なりのホームレス女性を見かけて以来、その姿をなぜか長らく記憶している。そして42歳のいま、あの女性こそが自分の間もなく行き着く先なのではないかと考えて戦慄するのだ。母親とふたり暮らしの鳴神には収入もなく、母親が倒れてしまえば終わりなのだが、やがてついに母親が身体を壊して入院し、医師からは後遺症が残ると言われる。つねづね「お母さんより先に死ななきゃ」と思っていた鳴神は、母の病状と介護を目の前にして絶望するほかない。収入もない自分がどのようにして? 死ぬこと以外に打開策が見つからない、そのような八方塞がりの状況に鳴神はいる。
鳴神の、気がつくと貧乏くじを引いてしまっているような役回り。これもまた切ない。たとえば、パチンコ屋で打っている途中で携帯電話が鳴り、となりの席にいた女性に「(電話)出なきゃだめよお、台なら見てたげるから」と言われる場面。鳴神は、女性に台と玉をまかせて外で電話を済ませるが、席に戻ってくると女性はおらず、せっかく出ていたたくさんのパチンコ玉は、すべて持ち去られている。ここで鳴神が「あー、もーあそこ行けないな」と考えるのが実にリアルであり、真に迫っているのだ。すばらしい描写である。自分が悪いわけでもないのに、同じ店にはもう行けないと思ってしまう鳴神の押しの弱い性格。巻末でよしながふみが指摘するように、パチンコ玉を持ち去った方の女性は、当たり前のような顔をして同じ店に通いつづけるのだろうと思う。
不倫関係から退職にいたる経緯も生々しく語られるが、退職後の鳴神はおそらく、不倫相手への呪詛を脳内で何度も反復しつつも、まだその忌まわしい記憶から抜け出ていないはずである。働かず家にいるだけで、たまの外出がパチンコ屋となれば、時間はあり余ってしまい、過去の記憶を反芻するくらいしかできることもないだろう。だからといってもう一度就職し、前向きな日々を生きることもできない、というあたりに鳴神の抱える困難がある。いざ立ち上がろうとすると、くだんのホームレス女性の姿が浮かんで何もかもが嫌になってしまうのかもしれない。そこにくわえて母親の介護問題がせまってきたとき、ずっと親に依存してきたニートの鳴神はただ途方に暮れるしかないのである。
死への隣接
本奈、小宮、鳴神。3人に共通するのは死への隣接である。彼女たちは死が自分の身に迫ってきていると感じ、その影をつねに意識しながら生きている。あるいはすべてに嫌気がさし、いっそのことリセットできたらどれだけラクだろうと考えながら暮らしている。意気揚々と生きてきた20代、30代をへて、40代になった途端に死がやけにリアルな事象として近づく。自分はいつ死んでもおかしくないという気持ち。死に対する重苦しい不安が、タイトルの『あした死ぬには、』に託されている。のんびりした性格の自分は、そこまで死を意識してきたわけではないが、40代の女性がこのように死を間近に感じながら生きていることをあらためて考えないわけにはいかなかった。
結局のところ、男性は甘やかされているのだと思う。のんびりと歳を取っていけるよう、収入も地位も社会がそれなりにお膳立てしてくれる。私もそのお膳立てに甘えて生きている部分が明らかにある。一方、女性は目前に死をひりひりと感じながら、不安に満ちた日々をすごさなくてはならない。これは社会全体の問題であるようにも思うし、若さに至上の価値を置く社会の歪みであるようにも思う。このように多くの女性が「死にたい」と思いながら生きている社会とはどのようなものなのか。なぜ生きることのよろこびを感じながら暮らせないのか。そんなことを何度も考えてしまった『あした死ぬには、』であった。
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