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冨田酒造を訪ねて(滋賀県・長浜市)

1534(天文3)年に創業した冨田酒造は、滋賀県長浜市の木之本町で『七本鎗』を醸す蔵です。琵琶湖の最北端にある木之本町はかつて中山道と北陸を結ぶ北国街道の宿場町でした。歴史と文化が息づくこの土地で、現在は15代目の冨田泰伸さんが酒蔵を継いでいます。

冨田さんが子供の頃、冨田酒造は桶売りを兼ねた小さな蔵でした。昔から「自分が蔵を継ぐ」という思いがどこかにあったそうで、大学進学後も休みの間はお酒造りの手伝いに蔵へ戻ってくるほど。卒業後は協和発酵に入社し、同期の大半が医薬品の営業(MR)に配属される中、強い希望によりお酒の部署への配属が叶いました。

所属は東京支社でしたが、平日は新潟の営業担当。当時は「上善如水」「久保田」「八海山」などが全盛していたことから、焼酎・梅酒の営業をする傍ら新潟の日本酒を学びました。また協和発酵は自社ワインや輸入ワインの取り扱いもあったため、ワインへの造詣も深くなったといいます。

2002年、量販店やディスカウントストアから日本酒が消えゆくさまを目の当たりにした冨田さんは、退職しお酒造りの道に進むことを決意。しかし蔵に戻って直面したのは、お酒造りに確固としたコンセプトがなく、米も酵母もコロコロ変えて迷走する冨田酒造の姿でした。

冨田さんは蔵に戻る前に訪れたフランスのワイナリーやスコットランドの蒸留所での対話を思い出していました。フランスでは多くのワイナリーがブドウ農家も兼ねており、冨田さんはその土地で育てるブドウと醸されるワインのテロワールからたくさんのことを学びました。またスコットランドでは、街の中に無数の蒸留所がある風景、そして土地に根付く酒と食との親和性に胸を打たれたといいます。冨田さんは、滋賀県産の原料にこだわったお酒造りと、お酒造りだけでない伝統や文化、そして日本酒を語り継ぐ精神性の継承を強く心に決めました。

蔵に戻ると、冨田さんは新しい取り組みを積極的に進めました。低精白のお米で醸造を設計したり、滋賀県産の品種を取り込むために契約農家に依頼したり、麹米も掛米もすべて単一品種で揃えたり……。今でこそ思い出話ですが当時は衝突の連続で、結果的に造り手たちの世代が若返ることとなりました。

また、現在は契約農家と連携し、在来種である滋賀旭の復刻だけでなく、土地に合った種を見極め自家採種から育てていくなど、「本当の意味での滋賀県産」にも徹底的にこだわっています。

最近では生酛造りと木桶での発酵管理を行っていますが、それもこの蔵に長年住み着いた微生物や木桶の表面に住まう微生物による自然な発酵をお酒造りに取り入れるため。「琥刻」というシリーズでビンテージの貯蔵や販売を行っているのも、熟成の仕方によって変わりゆく味わいや価値を楽しむ、長期的な視点の表れでもあります。

近年、日本酒は世界中で造られるようになりました。かつてフランス、イタリアのワインが全盛の頃にニューワールドのワインが登場したように、コスパや目新しさという点で日本酒が世界のSAKEに負ける時代が来るかもしれません。「ただ、新規参入が増えれば増えるほど、老舗の価値は高まっていく」と冨田さんは言います。簡単にひっくり返すことのできない「歴史」という時間軸に依拠した資産を蔵は持っているのです。

伝統や歴史、地域性を日本酒にきちんと絡めて継いでいく、ということの重さを改めて感じます。冠婚葬祭や農耕儀礼などと日本酒は切っても切れない関係にあります。ただ、そうした文化における日本酒は「ただの酔える液体」ではないということ。日本人の精神性が宿る場面においての日本酒が風景の一部として確かに存在するということを、冨田さんは酒蔵の当主として継承すべきであると考えています。

低迷する日本酒業界や新しい価値観の飲み手といった外部環境に対して酒蔵が適応していくことは事業者として必要です。同時に、守るべきものを守るという態度もまた必要なことでしょう。その上で、伝統や文化をアップデートし、新しい飲み手や価値観を取り入れる柔軟なビジョンこそが今の日本酒業界に求められる視座であり、蔵元の覚悟なのだ、と冨田さんのお話を伺っていて強く感じました。賤ヶ岳の合戦の舞台ともなったこの地で、静かに狼煙が上がるのが見えました。

冨田酒造有限会社
滋賀県長浜市木之本町木之本1107
Web: http://www.7yari.co.jp/
Instagram: https://www.instagram.com/shichihonyari_sake/

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