3 | 命を、 食べる
本日10月13日は、私の誕生日。
今日で22歳になります。
フィリピンでは自分の誕生日は、
「誕生日を迎える人が周りの人々に日頃の感謝の気持ちを伝える日」
でもあるらしい。
私もせっかくフィリピンにいるということで自分で誕生日パーティーを開くことにした。
そこで、昨日お祝い事に欠かせないレチョン(豚の丸焼き)を買うのために、豚を売っているお家を訪問。
「誕生日かい、早いけどおめでとう!何キロがいいの?30kg と37kgがいるけど」
私は30kgの豚を選んだ。
自分の選択によって、目の前にある命が食べ物になるのが決まる。
そんな瞬間は、初めてだった。
カミギンの人々は、家畜や魚たちとの距離が近い場所に住んでいるからこそ、命が食べ物に変わる瞬間を幼い頃から見る機会が多くある。
ここにきてから、袋詰めになった鶏が苦しそうに鳴いているのを目にしたり、生きたブタが重さを測られ出荷されていくのを真横でみることも珍しくなくなった。
ブタ売っていた彼女たちに関しては、もちろん命を育てて売ることでお金を稼いでいるし、それが彼らの生きる術である。
命が食べ物になる瞬間は、日常的におきているということを感じさせられる。
それを世界中どこでも再認識できるものとして、「いのちの食べ方」は、定期的に観たいと感じる映画。
魚、鶏、豚や牛を食べている時、その過程が行われていることを頭のどこかでは理解しているつもり。
でも、自分がいざ目の前で命を奪うという選択する側となった時心が怖気付く。
自分の手で命を失くす現実を見たくないから。
自分はその決断を下す人になりたくないから。
そう感じるのは、長年自分が住んできた場所が、その過程は目に見えないところで行われてきたからなのかもしれない。
だからこそ、
「頂いている命に感謝して、ご飯を食べる。」
どのようにして命が食べ物になるのかを見たことがあっただろうか。
だからこそ、この機会に目を背けてはいけないと思った。
豚を売ってくれたおばちゃんが、明日の13時に丸焼きを作り始めるよ、と教えてくれた。
せっかくだから、見に行って来ようと思う。
何が見えるのか、感じるのか。
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