そのうち忘れる底無し

わたしの信仰の第一は自然科学である。
しかし世の中生きていれば自然科学の理で解決しないこと納得できないこともある。
そんな時のためにわたしは第二にある宗教を信仰している。
といっても迷ったときや目の前の現実を納得しなくない時に指標にする程度の信仰で、酒と音楽と女の裸を売り物にしているいまの生活はとても敬虔な信者の姿ではない。

大人になったから、ある程度の自分の感情は自分で片づけようと心がけるようになった。
惚れた相手が好いてくれない。金も仕事もままなぬ日々。にわかの欲に振り回される夜。失ったものを思い出して無駄なことを吠える。理想と欲と現実のバランスが悪い。親しい人が死んだ。知らない人が死んだ。

もやもやすること、納得できないこと、憤ること、悲しいことに向き合って、どうしてそうなるのって聞いてあげて、その感情に名前をつけてわたしの持ちうる宗教と哲学の器に納めて飲み込んだ。
もちろん、いつでもうまく飲み込める訳じゃないけど、そのように試みることである程度心が穏やかになったりする。

この前のGWのこと。仕事を終えて帰りの電車に揺られている時、ニュースを目にした。
わたしが名前も知らない女性が客に刺されて死んだ。
出勤前は刺されているが怪我など彼女の状態については不明だった。
名前を知らない彼女の訃報に全身の力が抜けた。
底無しの地獄に風呂はついている。


悲しかった。
知らない人の訃報に悲しむのは偽善かもしれないけど、そんな外からの評価なんてどうでもよくて、わたしは悲しかった。
でもどういう名前の悲しさなのかよくわからなかった。
その事件のあと、見つけられる範囲でネットニュースも記事も読んだ。
たぶんこれ以降出てきてももうゴシップ系のそれだろうからあまり追いかけたくない。
Twitterで見かけた情報や、誰かの言葉や感情だけじゃなくて、「正しい」に近い詳細を知ればこの感情に名前をつけられるのではと思った。
しかしわたしは詳細を知る権利のある人間ではないからわかる程度のことしかわからなかった。

春からGWにかけて、ちゃんと働き者をしたからここ最近は少し疲れている。
疲れている頭で答えの無いことを悩むのは良くない。
でも悲しい。


名前のつけられない感情に悩んでいる時は人に相談するのが一番だ。
信頼している人に相談すればそれなりに納得できる答えが帰ってきて納得できる。
でもこの悲しいは誰に相談すればいいかわからなくて、ぼんやりぼんやりインターネットも夜の街も漂って、お気持ち表明文章を書いて公開することで落ち着いた。
そのうち消化できなくても悲しい気持ちは薄れる。

でもわたし、名前を知らないあなたのことを忘れたくないよ。

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