写真展で得た感想を備忘録的に書き散らすなど。

書き散らし場所としてはnoteのほうがTwitterより適しているなと思いつつ,公開エリアの制限などができないのでどうしようかと悩んでいる次第である.

先日或る大学の卒業制作展に行き,様々なジャンルでの創作物(芸術,デザイン,工業製品,研究報告等々)のエネルギーに触れ,創作への意欲とモチベーションを頂いた.若く青く荒削りな自己表現欲,承認欲などがごちゃ混ぜになったものは日常生活ではあまり目にするものではなく,多少大げさな言い方をすれば,自分が生きている実感にも通づるものだった.

さてそこから数週経った本日3月26日,私は或る写真展を訪れた.氏の作品は今まで多数の媒体で目にしてきたが,どれもキャッチーなものが多く(世間でよく見られるものなどキャッチーで無い訳がない)作品や氏の本質を垣間見れるような場には居合わせたことがなかった.もちろん写真集は目にしたことがあったが,デビューしたてのものばかりで(振り返って,大変失礼なのを承知で)今日の展示ほどの深みのあるものではなかった.

展示を訪れて得た第一印象だが,(比べるのも申し訳ないが)直近で見た卒展にあった荒削りな(承認,表現,生などへの)渇望が鳴りを潜め、数々のそういった欲求を潜り越えることで得た貫禄(すなわち経験と自信)が伺える展示であると感じた。ただ来る人の大半が、「可愛い」写真としての氏を見ていた感触だった。

ただ、セルフポートレートの場と映像作品の部分は特筆すべきものだった。前者に関して、シャドーの落とし方や飛ばし方、構図(というより視線誘導)と写真の組み方が見事だった.いらない情報は丁寧かつ大胆にそぎ落とされ,自己を客観的にどう見ているか,どう魅せたいかが言語化は出来ないが強く感じられるものだった.生々しい肉感とモノクロームでのざらついた雑さが相まって自己を直視しつつ飾らずに顕示する姿勢が刺さった。私の貧相な語彙ではあの力をこれ以上形容することができないのが残念だ.

映像作品においては、布一枚隔てて逆光下に置くことで人物がシルエットとなり、具体性が消失し物語性が強調される,という単純な事実を強く理解させられた。氏の映像作品が投影された布越しに、動く人々のストーリーが重ね合わされる、さながら生きる多重露光のように感じた。正直どれも技術や知識としては齧っていたが、この規模でその効果や表現の質と量を突きつけられるのは凄まじい衝撃であった。そこからどう帰ったか、はっきり覚えていない。技法の意味や効果を高い次元で理解しているからこそ取れる手法であろう。堪らなかった。

尤も,可愛い写真を見てスマホでカシャカシャ撮ってる人ほど1枚1枚を見る時間が短く,一緒に並んで撮ったり数人でお喋りしながら回っていたりしていた.そういう馴れ合いも悪くはないが,せっかくのこういう展示なのだから作品に頭を殴られてそれらに取り込まれてみてほしい.一緒に撮れると楽しむだけじゃなくて,自分が抗いつつも作品や作者に捕食される感覚を味わってほしいと思った.

圧倒的な棲む世界の差と実力の差と経験の差と感性の差と,そんな領域を味わわされた.

同時にさっき書いたような諸々を感じ受け取ったことで,写真の世界で自分のような持たざる者が存在することに対しての,一種の赦しを得たような気分にもなった.

家に帰ってから,この展示の先に挙げた部分で感じた,作品に孕まれたアイスピックのような細く研ぎすまされた冷たさは何なのかについて考えていた.特に「女」や可愛い(とされる)「物」や,艶やかさを写している中で感じた.艶やかでいつつも媚びない,女らしさと強さと優しさと冷たさと.今までに見た写真集の中では,イリナ・イオネスコのもので似たような感覚を得た気がする.写真以外のジャンルだと,椎名林檎とかでも得たか.一体何なのだろう.二度三度と行くことで,より高次の理解へと進めていきたい.

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