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経済学って結局なに?

経済学とは、経済の仕組みを研究する学問である。

以上!

あまりに単純な答えに、こめかみに怒りマークが浮き出てくるかもしれませんが、今しばらくご辛抱頂ければ幸いです。

以下では、経済学とは?と考えた際に、学問の「方法」として捉えるか、「内容」として捉えるのか、という二つの切り口がありうることをご紹介します。

そこで、「方法としての経済学」が主流の考えとなっている中で、原点に立ち返って「内容としての経済学」も大事な切り口だよね、ということを言いたいがために、冒頭では、「内容としての経済学」に基づく定義を紹介しました。

主な参考文献は「経済学ユーザーズガイド(ハジュン・チャン 著)」です。「こんなことも知らなかったのか」とお世話になった教授・学友は呆れることでしょうが、どうか不真面目な私をお許しください。

エロい経済学

さて、いきなりですが、今もっとも旬なエロい経済学について紹介しましょう。

今まで、経済学は合理的な個人を仮定して様々な理論を組み立ててきました。しかし、現実にはエロい衝動で非合理的に行動する人間が多数います。

経済学者は長年この問題に頭を抱え続けてきましたが、ついに、こうしたエロい衝動を理論モデルに取り込もうとする動きが活発化しているのです。。。

もちろん、エロい経済学なんて存在しませんよ(まだね)。でもこんな分野もあったのかと感心してしまうほど、◯◯経済学と題した本や記事ってありふれてないでしょうか。

これのどこが経済学なの?とりあえず「経済学」って付けとけば売れる、とかいう考えが透けて見えます(そういう題名の本、なんだかんだで気になるんだけどね。エロいならなおさら)。

そこで、経済学ってなんだろう?と考え直してみました。

そもそも、現代の経済学は、市場の仕組みに関する研究から大きく領域を拡大させたので、わかりづらいのは当然かもしれません。この点、「現代経済学(瀧澤弘和 著)」がわかりやすく整理しているのでオススメです。

よくある定義

ということで、学部生の時に受けた「経済学入門」を久しぶりに紐解いてみました。例えば、以下のような定義を聞いたことがあるのではないでしょうか。

「他の用途を持つ希少性ある経済資源と目的について人間の行動を研究する科学」(ライオネル・ロビンスの「経済学の本質と意義」より)

もっとわかりやすいものでは、 何を、どのように、どれだけ生産し、誰に、何を、どれだけ配分するか」を研究課題とする学問、というのもあります。

学問の方法か内容か

前者の「人間の行動を研究する科学」は、「科学」という学問を行う方法に力点を置いているようです。

一方、後者は「何を」研究対象とするかという内容に重きを置いているところに多少の違いがあります。

このように経済学の二つの側面を切り口に考えると、「これのどこが経済学なの?」という疑問に答えられそうです。

つまり、巷の◯◯経済学は、学問を行う方法という意味での経済学、すなわち「経済学的思考」を用いた◯◯の分析という意味で経済学なのかもしれません。

例えば、「ヤバい経済学(レヴィット/ダブナー 著)」では、相撲における八百長を分析していますが、相撲の分析のどこが経済学なの?と思わないでしょうか。

そこで、経済学が培ってきた人間の心理・行動を分析する手法をもとに「力士の損得勘定」を考え、八百長の起きる可能性を考察してみた、と捉えるとどうでしょう。

「経済学的思考」を駆使している点で、こうした研究も経済学と呼べるのかもしれません。

方法としての経済学:経済学的思考

では、「方法としての経済学」において肝心の「経済学的思考」とはなんでしょうか。

多くの場合、新古典派(neo-classical)経済学における、合理的な個人を土台にして、論理的に積み上げる思考を指すものと思われます。

つまり、「人は合理的に考える」という出発点から、ならば自らの満足度合い≒「効用」を最大化するように行動するはずだと考え、各々がこうした行動を取った結果たどり着く「均衡点」がどのようなものか、という考え方が経済学的思考のエッセンス(かっけー)なんじゃないでしょうか。

イメージが掴みづらいと思うので、経済学的思考でない考え方と比較してみましょう。

以下は「ミクロ経済学の技 神取道宏 著」(←学部生の時に出会いたかった)に基づいた例です。

問題:◯◯大学卒業生の年収が他大学と比べて高いのは、◯◯大学の良質な教育を通じて、生徒の知恵・スキルなどが向上し、生産性が高くなったからだ。マルかバツか。
常識人:もちろん、良い大学で良い教育を受けているから、人一倍能力も伸びて、年収が高くなるのは当然でしょ。マルだな。
略解:もちろん良質な教育によって生産性が向上することはあるだろう。
 だが、良い大学に行ったから頭がよくなった、というより、そもそも頭の良い人が集まっている大学が良い大学とされているだけではないだろうか。
 つまり、◯◯大学に行って頭が良くなったのではなく、◯◯大学に行ったことが頭の良い証明として機能しているだけではないだろうか。

マルかバツか明確に言っていないので解答になっていない!と思うかもしれない。

鋭いツッコミありがとうございます。でも、経済学的「思考」と書いたとおり、大事なのは答えじゃなくて、論理の立て方なんだと思います。

さきほどの略解の背景にある考え方は概ねこんな感じです。

まず、学生は自分の高い能力に見合う収入を得たい、企業は能力の高い学生を採用したいとしましょう。

でも、「能力」を容易に測ることができないという問題があります。ただし、能力が高い人は受験戦争をくぐり抜けることで、能力の高さを間接的に示すことができるとしましょう。

すると、能力の高い個人はそれをアピールするために、受験戦争を戦って◯◯大学に入学しようとします。企業は、◯◯大学に入れたヤツは能力が高いに違いない、と安心して高い賃金を提示します。

結果として、◯◯大学の卒業生は、高い賃金を得るというわけです。

特に難しいことは言っていませんし、結論も考えれば誰でも思いつきそうなものです。そう、「経済学思考」とは単純に論理的に考える方法の一つと言えるかもしれません。

改めて「経済学的」な考えの特徴を挙げるとすると、重要な人物を特定し(企業と学生)、各人の目標(学生は高い賃金を欲している)やその他の前提(受験戦争をくぐり抜けられる人はきっと能力が高い)を(数式を使って)明らかにした上で、それぞれが目標を達成するために最善を尽くす(合理的に行動する)とどんな結果に至るか?という思考の道筋を立てていることじゃないでしょうか。

このように考えると、「常識人」の解答では、そもそもどういう学生がどういう目的で◯◯大学に入ろうとしているのか?という視点が欠けていたことがわかります。

考えてみれば、「良い大学に入れば良い会社に就職できる」と言うように、必ずしも大学の教育が優れているから大学を目指すのではなく(もちろんそういう目的もありますが)、肩書きとして有効だからという理由もありますよね。

内容としての経済学

以上、「方法としての経済学」を説明してきました。さきほど例示したように、この「経済学的思考」は強いツールです。それでも、あえて冒頭で「内容としての経済学」を強調した理由をお伝えします。

例えば、相撲の八百長問題でみた通り、方法としての経済学が便利な故に「なんでも分析できる道具」と勘違いしてしまう危険性があるように思うのです。

鋭いナイフがあると、とりあえず色々切ってみたくなるように、現実をツールで分析するのではなく、ツールを使いたいがために現実を捻じ曲げることにつながる恐れもあると思います。

例えば、自分が学部生だった頃は、強い武器を手に入れたと思わんばかりに、経済学の非現実的な仮定(例えば、個人は将来に関する完璧な予想ができる)を常に意識しながら物事を考えていたように思います。

極端ですが、経済学というナイフを振り回した結果が金融危機をも起こしたとすら考えることもできます。例えば、「効率的市場仮説」といった、市場の合理性を説く理論を過信した結果が2008年の世界金融危機につながったとみる論者もいます。

こうした、「方法としての経済学」を過信して、誤った判断をしないように、対象としている問題を様々な学問や切り口から考えてみた方が良い経済政策につながるのではないか、とありきたりなことが言いたいのです。

そのため、冒頭では原点に立ち返って、内容としての経済学を強調した次第です。(ここで、経済の仕組みとは、財やサービスの生産・分配・消費にまつわる諸要素とざっくり考えてください)。

おしまい。未熟な経済学徒を啓蒙してくださる方はコメントお願いします↓↓。

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