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今更小山田圭吾の件について

オリンピック・パラリンピック

 世間はパラリンピックということで、オリンピックほどの盛り上がりは感じないものの、実家で流されるテレビをかいつまむと、パラリンピック関係の報道が大きい。

 僕は昔からスポーツ関係の情報に疎く、オリンピックやワールドカップが始まっても、何一つ興味が持てない質だった。

 特別スポーツそのものが嫌いというわけではない。実際試合を見たらどの競技も技術や戦略的なものを見る機会は勉強になるだろうし、面白いのだとは思う。ただ、スポーツはリアルタイムで見ないと盛り上がらなかったり、サッカーなど1試合見る度に時間を一定とられると思うと、いまいち気乗りしないのだ。

 それとは別に、オリンピックやワールドカップに特有の、何だか「日本」を祭り上げる感じ、個人が消えて国家に皆が溶け込んでいく雰囲気がいまいち馴染めないというのが大きいのだろう。特にメダル云々という話題が出てくると居心地が悪い。いい加減早く終わってくれないかなと思って時が過ぎていく。そんなことが繰り返されている。

小山田圭吾氏の件

 さて、今回のオリンピックはそれよりも気になるニュースがあった。小山田圭吾のいじめ事件に関するニュースである。

 さすがに7月のオリンピック開会式前の事件であるため、今この件について話題が出ることは少ないが、オリンピックと関係なく、自分にとっては尾を引いている。小山田氏の音楽についてはほとんど触れたことがなかったにも関わらず、どうも自分ごとのように思えてならないのだ。

 おそらく10年くらい前なのか、初めて小山田圭吾のいじめを扱った記事を読んだときは驚いた。この世の中にこれほど醜悪なことを面白おかしく話す人間が、堂々と今も音楽活動をやっていることに違和感があったし、ネット上で記事が拡散されているのだから、何かしら音楽業界にアクションがあってもおかしくないのだが、そんな素振りなど微塵も感じられず、正直不気味だった。あの記事を読んでから、小山田圭吾は自分から積極的に聞くことのないアーティストとして意識するようになっていた(あと、「すぎやまこういち」もそこに含まれるがそれば別の場所で)。

 とはいえ、小山田圭吾は僕にとって大きな存在であるYMOのサポートメンバーだったり、現在はMETAFIVEのメンバーであったりと、自分の好きな界隈の音楽に触れてたら避けることのできない人物だ。同時に、YMOなりその界隈の音楽を聞くというのは、単に音楽鑑賞をするというよりかは、そのカルチャーを吸収するというイメージの方が濃い。「サブカル」という言葉で形容される、アートやファッション、思想が自分達の生活に馴染んでしまっているせいか、小山田圭吾を否定することが、何だか自分のテリトリーも否定してしまうような、そんな奇妙な気分に駆られるのだ。

今思うこと、簡単に

 上のブログにも書かれているように、今回の事件について、論点はいくつもあるだろう。不十分ながら小山田圭吾自身がようやく過去のいじめ・虐待に対して声を出すようになったのは評価できる。もちろん今後も小山田自身でできることを誠実にやってほしい。と同時に、この問題を10年くらい前から知っていた自分は何をやってきたのだろうかと疑問に思った。YMOなり、サブカルを自分の居場所だと思ってきたのは自分の一方的な思い込みだったかもしれないし、そこであえて当事者性を持つ必要はないが、それでもあの記事を読んでしまった自分が何かしらできることはあったのではないか。自分なりのサブカルとの付き合い方を、もっと能動的に考える必要はあったのではないかと、今も悶々としている。


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