民主的な組織運営でないのに民主的だと言い切るから話がややこしくなる

 今一部で話題になっている共産党党員の除名問題、自分としても思うところがあったので情報を集めている。

 問題の内容については上記の記事で大体わかるので省略する。共産党の言い分としては主に2つ、松竹氏は党規約で定めるとおり、党内に自らの意見を言う権利があるにも関わらず、意見を出すことは一切せず、党の見解(規約と綱領)と異なる主張を始めたということ。もう一つは松竹氏と同じく党の路線に批判的な(現役党員と思われる)人物に、自分が本を出版する時と同じタイミングに本を出版したほうが話題になると、出版を急がせた、つまりそれが共産党が規約で定めた党攻撃のための分派活動になるということだ。
 松竹氏はこの処分に反発、「出版が分派活動として処分されるなら、憲法の保証する言論の自由は死ぬ」とのこと。

 すでにたくさんのメディアで記事が掲載され話題を集めているため、ほとんどの方はニュースだけでも知っているだろう。僕の知る限り、ほぼすべての記事は共産党の姿勢に批判的だ。

 メディアと共産党、一方は「異論封じ」といい、一方は「相手がルールに則らなかったからだ」といい、どちらも議論が噛み合わない。
 共産党の見解は一定理解できる。松竹氏が組織内部での批判をいくらかでもおこなっていたのであれば、党内の反応はまた違ったものになっていただろう。メディア側もその点について松竹氏を擁護する声は少ないはずだ。
 しかし、それでも「除名」という党で一番重い処分となるのが傍から見れば腑に落ちない。志位氏の見解では「赤旗紙面で警告した、地区や府常任委員会でも聞き取りをしたが反省はなかった。だから除名となった。」とのこと。やるだけのことはやったのだから除名しかないらしい。自衛隊の合憲、日米安保容認等、松竹氏の主張についても党の根本をゆるがす内容を「分派活動」をしながら始めたのだから、それなら潔く他の場所で活動してくれということなのだろうか。
 最終的に除名という形で処分するにしても、「異論封じ」という批判を避けるためにも、せめて時間をかけて相手と議論を交わすことはできなかったのだろうか。松竹氏を放置していると同じような意見を持つ党員が増長しかねないのではと、組織防衛的な観点から結論を早めたのではと勘ぐってしまう。 

 異論があるなら内部で言え。ちゃんと聞くから。ただし外部には言うな。それが民主集中制だ。外部に言うならそれは分派活動だ、党への攻撃だ—。用語も含めて、いったい、いつの時代のどういう世界観で組織運営をしているのかと思う。「老舗の味」で済ませられるズレではない。

2023年2月8日東京新聞

 僕も東京新聞と同意見だ。そもそも、党と違う意見を党員や議員が外に出すことに、なぜそこまで警戒するのだろうか。自分と他人の意見が完全に合致することがないように、個人の意見と組織としての意見が100%合致することはない。政党だって同じだ。何年か前の参議院選挙でも立憲民主党の石垣のりこ候補(当時)が街頭で消費税減税を主張して、枝野氏が慌てて止めに入ったというシーンがある。それは極端な例かもしれないが、所属政党と大きく異る理念や政策でない限りは、政党と個人で多少の違いがあることは有権者として折込済みだし、所属政党の矛盾や問題点について所属議員や党員が言及する場面があれば、むしろその方が政党として信頼できるものだ。

 僕は松竹氏の政策については同意できない。共産党が自衛隊を合憲とし、安保という名の軍事同盟を容認するようであれば今後共産党に投票することはなくなるだろう。それはそれとして、党運営や組織論について内外に意見を出すことは賛成だ。党首公選制については、積極的に必要かはわからないが、検討の余地はあるだろう。

志位 「党首公選制」なる問題についても、ご質問があればいくらでもお答えしますが、私たちは、いま私たち日本共産党がとっている党指導部の選出方法が一番民主的で合理的だと考えております。

 第1に、個人の専断を排し、集団指導によって民主的に党運営をやっていくうえで、一番合理的だと考えております。

 第2に、派閥や分派をつくらず、国民に対して公党として統一的に責任を果たしていくうえで、一番合理的だと考えております。

 第3に、もともと日本共産党というのは、ポスト争いとは無縁な党なんです。“私が、私が”といって、いろんなポストを争ったりするような党じゃないんです。

 日本共産党の党員は、だれでも、国民の苦難の軽減、平和、社会進歩のために、私利私欲なく頑張ろうということで、地位や名誉や、ましてや金もうけのために入っている人はいないんです。ですから、わが党に「党首公選制」なるものは合わないんです。

2023年1月10日しんぶん赤旗「志位委員長の記者会見松竹氏をめぐる問題についての一問一答」

 にしても、志位さんの理屈として頭では理解できるが共感できない、腑に落ちない感じってなんだんだろうと思ってモヤモヤしていたら以下のツイートを発見した。

 共産党の運営って民主的なのだろうか、という視点の持ち方が間違っていたのである。前に知人が「民主主義が正義なんて間違っている(アリストテレスが言うが如く、民主政は衆愚政治と化す)のだから、共産党は官僚主義的、ボリシェベキの如く大衆を導く前衛党でなければならない」と言っていたが、まさにそれだ。

 志位さんの言葉を聞いて、「民主集中制」なるものが一番民主的で合理的と感じるだろうか。内部で喧々諤々の議論をしている印象を感じるだろうか。実際はあるのかもしれないが、あろうがなかろうがそれは重要ではないのである。共産党の掲げた綱領や規約に同意できる人のみが入党し、中央が掲げた政策を集団的・組織的に実行する、それが日本共産党なのだ。もちろん、自分たちの党が官僚主義的ですなんて言えたものでないのだから、公式には共産党は民主主義の党です、というしかないのだろう。しかし本質はそこではない、自分たちの理念、綱領を実現するために一番効率のいい方法が何なのか考えた際で出てくる答えが「民主集中制」と呼ばれる官僚主義なのだ。
 前に田村智子さんや山添拓さんの国会での論戦を見て惚れ惚れしたのを思い出す。共産党議員による、与党閣僚の詭弁を受け付けない論戦力などは、おそらく議員個人の能力のみならず、組織レベルでの調査能力のなす技だろう。

 それはそれで価値があることがわかった上で、今後はどうなるのだろうか。共産党の党勢はゆっくりだが衰退している。高齢化も進み、今後党が存続するかも危ういと言われている状況だ。党勢を取り戻すためには自分たちの党のあり方、党運営に対し批判的な声も受け入れる必要があるのではないか。松竹氏の問題についても官僚主義的な理屈で処分したのかもしれないが、それで失うのは周囲の信頼だ。何も日本国民の最大公約数の考えが正しいわけではない。しかし大衆政党として生き延びるためには、その間違っているかもしれない最大公約数の国民を引きつけるテクニックが必要だろう。本当のことをいうと、党首公選制がどうのということを悠長に議論している状況ですらないのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?