贖罪
聖書に従って生きていれば正しくて、自己の存在意義が絶対的に定義されていた時代があったそうで。今となっては何が正しいとか、何故自分は生きているんだとか、「神は死んだ」なんてニーチェが言うから現代の若者の自問自答トレンドはこればっかりです。
斯く言う自分も生きる意味なんて分からなくて、日々模索するフリをしながら惰性で生きてます。
「自己肯定感」とはよく口にされるものですが、要は自分の存在を肯定する要素とそれを補強する外的要因、そこに過去の経験が減算値となって完成するんじゃないかと思います。過去からの減算が大きすぎると何を褒められてもとても自分の事とは思えず、一般的な感性に立ち上がることは難しいような気がします。自分はそうなので。みんな俺のこと嫌いなんだろ、本当は馬鹿にしてるんだろう。そうして悪態を吐くことでしか自身を救うことが出来ない。そういった人間はやがて本当に見捨てられて惨めな結果を迎えることになるのです。ああ虚しい。人生とは此れ如何に。
自傷行為に何を求めているのかというのは人によって様々なのではないでしょうか。例えば、精神的苦痛を一時的に忘れさせるため、実際に血を流すことにより自身の生を実感するため、痛みを快楽と認識しているため、といったように。
自分はリストカットをしたことはありません。自傷の方法としてはあまりにポピュラー過ぎて意味が形に食われてしまう気がするので。
偶に自分に打撃を食らわせます。その瞬間、己に罪ありきと感じた時、贖罪の意味を込めて自分を殴ります。贖罪をしたという認識に救いを求め、痛みを忘れず。結果、クールダウンした意識は贖罪の意味を見失い、滑稽な自分を見つめ直すことになります。救いは得られません。全く虚しい人生です。
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