映画「プロメア」に見たボーイズラブ

※この記事はネタバレに配慮した記事ではありません

 プロメア、面白かった。

 聞いてくれ、プロメアが面白かったんだよ。1回目はTRIGGERの新作だからって理由でとりあえず見に行った。アニメ映画が好きだから。今敏とかね。で、1回目は正直、そうでもなかった。楽しかったけど、ふつう。でも、あるシーンが引っかかった。

 私は腐女子だ。まあ長いこと患っている。それなりに真剣に男と男の関係を消費して生きてきたし、そんじょそこらの、ほらこれだろ、と差し出されたようなものはあまり食べたくない、いわば「グルメ」だ。一昔前横行していた、腐女子をターゲットにしたようなアニメには食指が動かなかった。
 で、だ。プロメアにはそういうシーンがある。嘘。「そう取ろうと思えば取れる」シーンがある。見た人はわかるだろう、「人工呼吸」のシーンだ。端的に言えば、W主人公のガロとリオが口と口を合わせる。
 でもあれはキスシーンじゃない。キスシーンじゃないし、私はあれを(愚かにも)ボーイズラブのためだけに書かれ雑な手付きで貼り付けされたシーンだとは思わない。ただ、家に帰った後、ああきっと世間のまだ審美眼の研がれていない人たちは、あれを愚かにも、ビーエルだと囃し立てるのだろう……作品に還元された意味もわからず、質の悪いものとの区別もつけられずに……というもやもやとした遣る瀬無さが、どうしても拭えなかった。
 あれは、ボーイズラブのために書き下ろされたシーンではない。だからあれをビーエルと囃し立てられるのにはやや腹が立つ。が。あれは確かに、ボーイズラブを孕んでいるのだ。その話がしたくて堪らなくなった。

 ボーイズラブの定義をしよう。私は、互いに「特別」を見出した人間と人間の関係を「ラブ」に分類する。互いが互いの価値観において、代え難い存在であることを。それが男と男で為されていれば、それをボーイズラブと呼んでいる。その2人のセクシャリティが明示されていなければなお嬉しい。もしあなたがそうしたいのならブロマンスと読み替えてもらって差し支えないし、これを「ボーイズラブ」だとは思わない人もいるだろう。そこに肉体の接触は必要ない。セックスは必要がなければしなくていい(必要があればしてほしい)。互いが関係の中で必要なものだけを取捨選択すればいいと思っている。もしどうしても違和感があるのなら、私のいうボーイズラブは「ラブ」の範囲がとてつもなく広い、と捉えてくれれば問題ない。
 つまりだ。私はあのシーンの「キスという行為」に、ボーイズラブの引き金はないと考えている。

 ではボーイズラブとはなにか。「文脈」だ。それはキャラクタによっても変わるし、ストーリーによっても変わる。今回は、ストーリーの序盤から敷かれていた、ガロとリオの対立構造が基礎になる。そこを基礎としてみたとき、あのシーンは、とんでもない構造を孕むことになる。

 あの2人は天秤だ。片方が浮けば片方が重石になる。順を追ってみてみよう。

1. リオがクレイに対しての怒りを暴走させ、市民をむやみに殺しかねない状況になった際、それをガロが止める。2. クレイに殺されそうになったガロを守るため、リオが自分の炎の一部をガロに授ける。3. それに命を救われ、守られたガロが、リオの命の炎を握って、今度はリオを救いに行く。

 この互いに守り守られるシーソーゲームがこの映画終盤の核になっている。あれだけの話の展開を行っておきながら、「詰め込みすぎだ!」という感覚がほぼないのは、2人の関係に焦点を当てた時にこれだけシンプルで、わかりやすく、キャラクターの行動指針と合致した納得感があるからだ。さらに、守る/守られるの関係が入れ替わることで、この2人が視聴者の感覚として「対等である」と感じられる。

 このシーソーゲームは、リオをポッドから救い出したガロが、「自分を守った炎」の返還の儀を行うことで幕が引かれる。
 つまり、あのシーンは、どうしても「人工呼吸」である必要がある。
 キスではダメなのだ。せっかくここまで築き上げた文脈が、崩壊してしまう。
 あれは儀式だ。あそこのシーンまではそれぞれの役割を遂行していた2人が、「奪わず与える」を信条としたリオが、「守り消す」を信管としたガロが、「与えられ」、「灯す」という、配役の交換を行うのだ。 この場面において大切なのはこの配役の交換であり、身体の接触ではない。つまり、口と口を合わせたこと自体にはなんの意味もない。必要であった行為がたまたま「人工呼吸」であったという、ただそれだけの話なのだ。
 だが、ここまでやった2人を「特別」と呼ばずして、なんと表現しようか。

 履き違えないでほしいのは、この2人が、一方的に与えられたり、一方的に救われる話ではないということだ。あれはそういうエモーショナルではない。どちらも「持つもの」であり、豊かだ。友人もいるし、きっと愛も知っているだろう。差別はあれど、所属すべきコミュニティがあり、孤独ではない。そういう欠陥はない。どちらかが欠けていれば天秤の両手には乗れない。
 彼らはどちらかが愛されてきた人間で、どちらかが愛されてこなかった人間ではない。「幸せになれ」なんて雑な言葉でくくってしまっては、明らかにされていない彼らのいままでの人生まで観客の手で「不幸」に貶めてしまう。確かに作中「いわれのない差別」という悲劇の要素が割り込んでくる。「家族がいないかもしれない」という不穏の影がちらつく。だが、彼らは誇り高く、豊かな人間だ。そう生きているキャラクタに対する不要な悲観は、正しく理解する上でのノイズでしかないと私は思う。

 少し蛇足になるが、それまでの場面で打たれてきた布石も見てみよう。劇中、お互い以外の人間と、口と口を合わせるシーンがリオにはあり、ガロにはない。リオは死にゆくバーニッシュの少女シーマに対して、「自分の命の炎を分け与える」という文脈で、人工呼吸をする。一方、ガロは氷の湖で転びかけたアイナを受け止めた際に接近するが、キスをしない。キスに対して必然性を示す文脈がないからだ。
 この描写に関する表現を掬うだけでも、プロメアが、どれだけ優れた場面配置をされているのか、全ての行動に対して必然性を持っていて、キャラクタが一貫していて、見ていてストレスが少ないかが、よくわかる。

 結局、執拗に映画館に足を運ぶほど夢中になってしまっている。
 ああ、2019年夏、まだまだ楽しみな映画があるというのに、これだけ爆発的な皮切りをしてしまって、いいのだろうか。

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