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3月21日 今日は人生最幸の日

おはようございます!


どんなに暗くても、星は輝いている。


#エマーソン


3月21日


今日は、『ツイッター誕生日』


2006年のこの日、ツイッターの一番最初の「つぶやき」が行われた


本日のお誕生日


平野レミさん、岩城滉一さん、トルシエさん、田崎真也さん、アイルトン・セナさん、ロナウジーニョさん、佐藤健さんなどなど


もんち的には、音速の貴公子、アイルトン・セナさんのお誕生日


本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️


アイルトン・セナ


本名、アイルトン・セナ・ダ・シルバ。


幼少時のセナには運動協調性の問題があり、3歳になった時点でも階段を登ることが苦手だった。
そのため脳波図を調べたが、まったく異常が無いことが確認された。


この後、優れた運動神経を持った子供になり、体操やその他のスポーツを得意とした。


自動車とモータースポーツに興味を持ったのは4歳の時だった。


セナが7歳の時、家族が所有する農場で初めてジープを運転し、クラッチを使うことなくギアチェンジすることを覚えた。


セナに与えられた初めてのレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の小さな芝刈り機用エンジンを載せていた。
セナが13歳の時、インテルラゴス・サーキットで初めてレーシングカートの競技会に参加した。


セナは1977年に南アメリカ・カート選手権を制した。
その後、セナは1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦し、1979年と1980年にはシリーズランキングで2位となった。


1981年、セナはフォーミュラカーレースに参戦するため、妻リリアンと共にイギリスに渡った


1981年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード1600の2つのシリーズに参戦して両方の選手権でチャンピオンとなった。
イギリスで成功を収めたにも関わらず、家業を手伝うように求める両親からのプレッシャーもあり、セナは1981年シーズンの終了後にフォーミュラ・フォードからの引退を発表し、ブラジルに帰国した。


しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルでの生活を強く希望した妻リリアンと両者合意の上で離婚し、1982年2月に単身で再度イギリスに渡った。
1982年シーズン、セナはフォーミュラ・フォード2000に転向し、イギリス選手権とヨーロッパ選手権でチャンピオンとなった。


1983年シーズン、セナはイギリスF3選手権にウェスト・サリー・レーシングから参戦し、シーズン前半は連勝を続け選手権首位を独走した。


1984年、トールマンからF1デビュー。
初戦ブラジルGPはターボトラブルでリタイアしたものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録した。


マシントラブルやF1での経験不足から安定した結果は残せなかったが、第8戦デトロイトGPでの予選7位、第9戦ダラスGPでの予選6位から一時4位走行等、ドイツGPでの一時5位走行など、市街地コースを中心に速さを垣間見せることとなった。


1985年、当時名門に数えられていたロータスに移籍。


シーズン後半には決勝レースでの結果も安定し、第10戦オーストリアGPから5戦連続で表彰台に立つ。


1987年、セナの要望を受けピーター・ウォーはホンダエンジンの獲得に成功し、チームメイトにホンダと縁の深いF1ルーキー・中嶋悟が加入。


翌1988年シーズンからホンダがマクラーレンと提携しエンジン供給パートナーとなる事と、セナがマクラーレンに移籍しアラン・プロストとコンビを組む事が発表された。


1990年、開幕戦アメリカGPでは、予選での電気系トラブルにより5番グリッドとなるも、決勝では優勝。


この年もタイトル争いは、セナとフェラーリに移籍したプロストとで争われ、3年連続両者の争いとなった。


1991年、当時の新記録となる開幕4連勝を記録。特に第2戦ブラジルGPでは、ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中で、念願の母国初優勝を達成。


セナは1993年の休養もほのめかすようになり、前年チャンピオンとなったマンセルがCARTに転向したことから、セナもまたCART転向も考えるようになった。


同年シーズンオフにはプロスト、翌年からチームメイトとなる事が決まっていたデイモン・ヒル、そのほかアンドレア・デ・チェザリス、フィリップ・アリオー、ジョニー・ハーバートらと共にカート大会に参加、これが最後の「セナプロ対決」となった。


1994年、予選1日目、親密な間柄であった同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし病院に搬送された。
結果的には鼻骨を骨折という軽傷であったものの、一時は安否を心配されるほどの大きな事故であった。


そして翌4月30日の予選2日目には、ヴィルヌーヴ・コーナーでクラッシュしたローランド・ラッツェンバーガーが死亡。グランプリ中の死亡事故は、F1では12年ぶりのことだった。


これら一連のアクシデントの中でセナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている。


ポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。そして再スタートが切られた後の7周目、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmでイン側を走行中に、3つ目の舗装の継ぎ目で突然不安定となりグリップを失ったままアウト側に向かい、そのまま直進してコースアウト、コース右脇のコンクリートウォールに激突。
ボディー右側が大破した。


セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後に34歳で帰らぬ人となった。


死因は「大破したマシンのサスペンション部品が、ヘルメットを貫通した」と結論付けられた。



アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」と呼ばれてましたね。



本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍



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