11月23日 毎日が記念日
おはようございます!
生命のあるかぎり、
希望はあるものだ。
#セルバンテス
11月23日
今日は、『勤労感謝の日』
勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう国民の祝日
本日のお誕生日
ビリー・ザ・キッドさん、白井義男さん、サイ・ババさん、田中邦衛さん、十朱幸代さん、石田ゆりさん、岩崎ひろみさん、三瓶さんなどなど
もんち的には、元チャンピオンのタコ八郎さんのお誕生日
本日お誕生日の方々、おめでとうございます
㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️
タコ八郎
本名、斎藤 清作(さいとう せいさく)。
仙台市内の農家に8人兄弟の次男として生まれる。
少年時代に友達とどろんこの投げ合い遊びをしていて、泥が左眼に当たったことが原因で左眼の視力をほとんど失う。
高等学校在学中ボクシング部に入部、2年生時には宮城県大会で優勝している。
その後上京し、様々な職を転々とした後、笹崎ボクシングジムに入門。
左目の障害を隠し、視力表を丸暗記してプロテストに合格、プロボクサーとしてデビューした。
同ジム同期にはファイティング原田がいたが、フライ級の東日本新人王戦の準決勝で原田との同門対決となったため、対戦を辞退している。
1962年、第13代日本フライ級チャンピオンとなった。
髪型を河童のように刈り込んだことから『河童の清作』と呼ばれた。
また、ノーガードで相手に打たせて相手が疲れたところでラッシュをかける戦術で、漫画『あしたのジョー』の主人公、矢吹丈のモデルになったとも言われている。
左眼が見えないハンデを相手に悟られないように、相手のパンチをかわさず打たれ続け、さらに挑発的な言葉を相手に投げかけ、相手が打ち疲れ戦意を喪失した後に反撃するファイトスタイルを用いた。
ファイティング原田は「どんなに打たれても倒れず、耳元で『効いてない効いてない』とささやき続けた。
対戦相手にとってはそれが本当に怖かった」と語っている。
しかし、受けた頭部へのダメージによりパンチドランカーとなり引退。
引退後、同じ宮城県出身ということでコメディアンの由利徹に弟子入りし役者として芸能界デビューする。
芸名の由来は、自宅近くの行き付けの居酒屋「たこきゅう」から採った。
いつも酩酊状態(のような演技)で、「たっこでーす」という決まりの台詞と、コミカルな風貌でお茶の間の人気者になり、映画にも出演している。
この様なTV画面などでみせる姿は、コメディアンとしての彼の完璧なる「演技」で、自分の役割を心得て計算をしていたといわれる。
入門直後は、師匠の由利宅に住み込みだったが、まだパンチドランカーの症状が残っており、台詞覚えが悪く、寝小便も度々あったため本人がそれを気にし、家を出て友人宅を泊まり歩いた。
受け入れた友人たちも「迷惑かけてありがとう」という彼の素朴で温厚な人柄に触れ、邪険に扱うことはなかった。
また、毎晩のように飲み屋で過ごしていたが、請求が来ることはなかったという。
誰からも好かれる芸人であった。
その芸風からプロボクサー時代が想像しにくいが、映画『幸福の黄色いハンカチ』での高倉健との喧嘩シーンでは切れのある動きでかつての片鱗を見せた。
同映画で共演した武田鉄矢はラジオで「撮影の合間に数人のチンピラに絡まれたことがあるが、たこさんがヌーッと出てきてフッと動いた次の瞬間、チンピラ全員が地面に倒れていた」というエピソードを披露したことがある。
酔っ払ったたこの面倒をよく見ていたあき竹城は、飲酒が多いことを心配し、「(お酒ばかり飲んでないで)ちゃんとご飯を食べなきゃダメだよ」などと、彼の世話を良く焼いていた。そのため、「たこの恋人」と言われたこともあったという。
人気絶頂期の1985年、たこは岩海水浴場で飲酒した後に海水浴をし、心臓マヒにより急死した(たこは死の直前、その姿を週刊誌に写真を撮られていた。また、その頃にはパンチドランカー症状はかなり改善していたともいわれている。)。
この訃報は、たこが当時レギュラー出演していた『笑っていいとも!』の放送中、タモリによって全国に伝えられた。
葬儀委員長を漫画家の赤塚不二夫が務めた。
新聞には「たこ、海で溺死」と書かれていた。
弔問に訪れたタモリも「たこが海で死んだ。何にも悲しいことはない」と、たこの死を悼んだ。
赤塚不二夫も、「現代の妖精だったね。たこは」とたこを追悼するコメントを残している。
毎日のようにテレビで見ていたたこさんの突然の死は、本当に衝撃的でした。
本当に愛されるキャラクターだったと思います。
ご冥福をお祈りします。
本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍
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