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パートナーのこと。

2月15日はパートナーの59回目の誕生日です。

とはいえ、彼はあんまり記念日事に興味や関心がなくて、自分自身の誕生日はもちろん、子供の誕生日ですら、私が言わなければ(言っても)何もしない人でした。

そんな彼の誕生日ですが、さて、今年はどうしましょう。

パートナーが亡くなったのは、2019年の夏です。
原因は、わかりません。

胆のうに異常が見つかって、全摘手術を受けました。胆のうは取り出してみないと詳しい検査ができないことと、そんなにリスクのある手術ではないという認識があったので、私も、そして多分彼も、手術自体をそれほど不安に思っていませんでした。
実際、術後の経過には問題がなく、1週間で退院することができましたし、その後家で休養していた少なくとも3日間は、何事もなく元気に過ごしています。でも、もしかしたらその間にも体には異常が起きていて、私たちがそれに気づけなかっただけなのかもしれません。
最初の異変は、退院して4日目の朝でした。彼が悪寒と体の震えが止まらないと訴えてきたので、大事を取って受診しました。術後の発熱はままあることで、抗生剤を使えば大抵の場合数日で治ります。この時も、禁食と長時間の点滴が必要だったので入院にはなりましたが、熱が下がって食事が取れるようになればすぐ退院出来る、くらいの軽い気持ちでした。

ところが入院して2日目の朝、容態が急変しました。病院からの「今すぐ来て欲しい」という電話を受けて駆けつけると、彼の姿は昨日まで居た病室にはありませんでした。何が起きているのか全くわからず呆然とする私に、待ち受けていた師長さんが声をかけて下さったのですが、何を言われても頭の中には「どうして?」「どういうこと?」が浮かぶばかりです。

その後彼が亡くなるまで、いえ亡くなってから今までもずっと、この「どうして?」は私の中に残ったままです。
多分、一生消えることはないと思います。

最初に彼の異常に気が付いたのは、巡回に来た看護師さんだったそうです。結論から言えば、この時彼の体の中で起きていたのは、肝臓の動脈からの大量出血でした。手術後2週間近く経っての再出血は本当に例がなく、どうしてこんなことになったのかはわからない、とのことでした。
看護師さんの発見が早かったことと、主治医の先生方の素早い対応のおかげで一命は取り留めましたが、これはもう元の通りの体に戻ることはないのだと、突然の出来事に混乱した頭でも容易に想像が出来てしまいました。
緊急手術を終えて集中治療室に戻ってきた彼の体は、何本もの管とコードに繋がれていて、それで「どうにか命を繋ぎ止めている」ように見えました。
胆のう切除の術後にもお世話になった集中治療室でしたが、まさかたった2週間で、しかも前よりも酷い状態で戻ることになるなんて、思いもしませんでした。

それからはほぼ毎日病院に通い続けました。子供たちは学校があったので、週末だけ一緒に会いに行きました。学校のこと、彼も好きだった鉄道の話、日常の何気ない出来事、いろいろなことを話しました。一度は人工呼吸器が外れてリハビリもできるようになりました。なかなか発語がなくて脳のダメージを心配していたのですが、まだお茶かお水しか許可されていなかった頃、何を飲みたいか聞いたらニヤッと笑って「オ・レ・ン・ジ・ジュ・ー・ス」と言った時には、やっとここまで、冗談が言えるくらいまで回復してきたんだ、と思って本当に嬉しかったです。

ただ、そんな状況でも、頻回に行われる血液検査の結果が一向に良くならないことが、気になっていました。貧血が治りません、腎臓の機能が徐々に悪くなっています、炎症反応がなくなりません、そして肝臓の機能も落ちたままです。
腎臓に関しては、一時的に人工透析が始まりました。貧血に対しては輸血が行われ、炎症反応を抑えるための抗生剤の点滴は、何度か種類を変えて続けられました。

本当に、出来ることは全てやっていただいた、と思っています。

でも、そこまでしても、結局彼の命を救うことは出来ませんでした。

再入院をしてから1ヶ月が経った頃、大量の吐血と下血が始まりました。
さらに良くないことに、透析をしている人にとって、危険で厄介なウイルスに感染していることもわかりました。
そして、出血の影響もあってか血圧が安定せず、十分な時間をかけて透析をすることがそもそも難しくなってしまいました。人工透析は、簡単に言えば腎臓の代わりになるものです。体内のいらないものを取り除くだけでなく、体に必要なものを残したり追加したりもします。
それが、最終的には完全に不可能な状態になりました。

透析ができなくなってから亡くなるまで、どのくらいの時間があったのか、はっきりとは覚えていません。
一度は外した人工呼吸器の再装着に同意して、そこから1週間、彼と私と子供たちと、鹿児島からやってきて下さった高齢の義母と、それから彼を子供の頃から可愛がっていた親戚の方数人と、病室で一緒に過ごさせていただきました。彼の姿を義母に見せることには迷いもありましたが、最後に一緒に過ごす機会を作ることが出来て、良かったと思っています。
そして、再入院の後も彼を休職扱いのままにして下さっていた会社の上司の方が、退職の手続きとお見舞いに来て下さった翌日、彼は静かに息を引き取りました。多分気にしていただろう仕事のことが一区切りついて、安心したのかもしれません。
真面目な、彼らしい最期だったと思います。
彼をベッドに縛り付けていた全てのチューブとコードが取り外されて、体をきれいにしてあげている時に、看護師の方から「絶対に辛くて苦しかったはずなのに、一言も私たちに文句を言わなかったんですよ、本当に尊敬します」とおっしゃっていただきました。

小さな骨になって我が家に帰ってきた彼と、私と、子供たちは、それから半年ほど一緒に時間を過ごしましたが、生まれ育った鹿児島の地が好きだった彼のことを考えて、翌年のお正月に、義母の元にお返しさせていただきました。今は桜島が見えるお寺の納骨堂で、ゆっくり休んでいることだと思います。
その後コロナウイルスの流行があって、県を超えた移動が難しくなってしまったのですが、落ち着いたら(落ち着くと信じています)また、みんなで会いに行こうと思っています。


書いているうちに、誕生日が終わってしまいました……。


ちなみに、今となってはどうすることもできないことですが、胆のうの異常(胆のう壁の肥厚)については、検査の結果「悪性のものではない」ことがわかりました。切除しなくても、定期的にエコーなどでフォローしていく程度で良かったかもしれません。


お仏壇には、彼が大好きだった「ラムネ」をお供えさせてもらいました。
お線香はもちろん、「ボンタンアメ」です。


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