職業に貴賤はない

って、ずっと信じてきた。

つもり

だったんだけどなー


だけど、私のその一見美しい(と思うこと自体がもうアウトだけど)信念のようなものは、

単なる共依存的発想の一部で

自分の価値観の中で賤に当たるような職業の人を見下した上での、

同情心だったのだ。


そう思い知らされるような場面に遭遇して

そんな卑しい発想の自分に直面し

またこの世から去りたくなるのだ。

去らないけど。


そんな同情心に気づき、認めることって

言うほど簡単じゃない。

一見は、「正しい信念を持つワタシ」なんだもん。

あからさまに職業差別する人に眉をひそめ
「ワタシは心が美しいから、そんな差別しないわ。」
みたいな意識でもってそこに立っていたのに

実は、だれよりも職業差別してたのは、ワタシでした。
本能のまま眉をひそめて見ていたあの人たちより、最低でした。

ってことを認めるのはとても苦しかった。

そんな過程で死にたくなるんだけど。

死なずに認めた。

そしたら、その意味が深く理解できた。

「職業」には貴も賤もない。それは事実。

しかしどんな職業であろうと、
貴のふるまいをする人もいれば賤のふるまいをする人もいるのだ。

問うべきは、その職業に向かう、意識の質なのだ。


しかしながら、かなりぶっちゃけて現実を言ってしまえば、
賤と思われがちな職業に就く人は、どうしても意識が低い傾向にある、ように感じる。

そういう人は、やはり、、、という面が多いってのも、
事実だと、私は感じている。

綺麗事ではない現実だって、確かにそこにあるのだ。



私は、パートだろうが正社員だろうが、同じ責任を伴う仕事をしてきたし、

その職を離れて、
「パート程度」と言えるような、自分の頭は使わず、言われたことを言われた通りにやれば良いだけのカンタンなお仕事もしてきた。

両方の状況に、中に入って体験しなければ、
分からないことがある。



パート仕事を見下すモラハラ夫的な話もあるけどさ、
現実的に、いわゆる「パート程度の仕事」もあるんだ。

そして、お小遣い稼ぎのパートのオバチャンのテキトーさ加減には、辟易するよー

だけど、オバチャン達は、その世界しか知らないから
分からないのだ。

その世界の中で、
目くそ鼻くそオバチャン同士が優劣を競い

優位に立ったオバチャンはしょーもない承認欲求を満たし、
自尊心を満たしエゴを肥大化させ、

劣のオバチャンは、自尊心を傷つけられ、
負の感情にとらわれ
病むオバチャンも出てくる。

外から見たら、
区別もつかない程度の似たり寄ったりオバチャンなのにね。

私の姿もまた、ハタから見れば、それらのオバチャンと変わらないのだろうけど。


重めの責任を持って、自分の頭を使って費やす8時間と
言われたことを言われた通りにこなす8時間。

そりゃ対価は違って当然だわよ。

(しかしながら、言われたことを言われた通りにやるのも、能力が必要だよ)

やっぱさ、時給には意味があるんだよ。

ただし、それは「その人自身の評価」って意味じゃないんだよね。

だけど、オバチャンはじめ、多くの人は、
それを混同してしまう。

職業に貴賤はないんだからって、
給料格差の話が出てくるのはそういうところからなんだろなー。

真意を理解できないし、理解してないことも理解できない。

だけど、理解する機会すら与えられないのも現実だ。


私は、(一般的な常識のある人の中では)社会的にはそれなりに地位が認められている仕事をしてきたけど、

そういう職業って、どうあがいても就けない人っているんだよね。

だから、その世界を知る術もない。

しかし、それなりの社会的地位のある職を持った人が逆の地位の職に就こうとは、なかなかしないものだ。

お互い、知らぬが仏。


だけどさ、両面を知ることでしか見えない世界があることを、私は知ってしまったのだ。


それを知る必要があったのかもよく分からないけど。

知らずに生きることを許されなかった、ってことだと思ってる。




心理学(笑)の人たちは、
思い込みという色眼鏡を外しましょうとか、
軽ーく言ってたけど、

色眼鏡なしに現実を見るって、かなりシビアだ。


でもま、大丈夫。

心理学(笑)やスピにハマる多くの人たちは、
現実を見ないためにそこにハマっていて

言葉だけで色眼鏡を外した気になるだけ。

分厚い色眼鏡のアフォなセンセの誘導で、
色眼鏡はどんどん濃くなる。

だから現実を突きつけられて苦しむこともないでしょう。


濃くなればなるほど、外すのも難しくなり、

余計に現実から離れたことを言うしかなくなっちゃうよね。

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