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最後はなぜかうまくいくイタリア人(ネタバレ有)

今回紹介するのは、「最後はなぜかうまくいくイタリア人」。
今夏にイタリアに行ってきたので、それを思い起こしつつ読みました〜。

たくさん目次の項があるんですが、僕が特に面白かったのを選んで、その項の概要と感想を書きました。好きなとこから呼んでください〜。


『先に来た人ではなく、遅れた人に合わせるイタリア社会』

イタリア人は時間にルーズだ。南に行くほどルーズになるらしい。
筆者曰く、イタリア社会の時間には「建前として設定した時間」と、「本音として守ろうとしている時間」があるらしい。「建前としての時間」はいわば選挙の時に出てくる公約みたいなもので「この数字を目指して頑張ってみます」と言った感じだ。「夕食20時」と言われれば、「20時にむけて頑張ってくれているけれど、おそらく20時半〜21時ごろだろうな」と考え、実際その通りに社会が動いていく。なんかうらやましい。

『資本主義の常識を軽やかに無視するイタリア人』

時間には「公」と「私」の時間がある。いくら仕事と言っても「私」の時間が完全に疎外された労働は苦役に陥りやすい。「公」と「私」が、「仕事の時間」と「私の時間」がうまく溶け合った労働は生きがいを生みやすい。資本主義の段階が進むと、労働の商品化、疎外が極端に進んでしまう。イタリア人は柔軟な労働契約の解釈によって資本主義の先鋭化を止めてのんびりと楽しく働くことを可能とした。天才だ。

『イタリア人は分業ができない』

イタリア人はフェラーリは作れるけど、フォルクスワーゲンは無理らしい。分業すると効率的だし部分的に集中するから完成度が上がる。しかし仕事の全体像が見えなくなることは労働意欲を下げる。ひたすら同じ単純作業をする仕事は苦痛だ。「仕事だから仕方ない。我慢しよう」と妥協するものだと僕は考えていたが、イタリア人はそのような妥協をする人が非常に少なく、好きではないことはやらないらしい。だからイタリアはフォルクスワーゲンのような大工場で均一に大量生産することは苦手である。しかし、一台一台のマシンを職人が仕上げるフェラーリは得意だ。どっちが良いのか。

『目標達成ではなく、その過程を楽しむ』

世界におけるイタリア移民の数は多い。出稼ぎに行って故郷に戻るのではなくそこに定住する人が多いということだ。「早く故郷に帰りたい」と思って数十年過ごすより、帰国を忘れるくらい熱中できる人生の方が良い。学校の下校道の寄り道ほど楽しいものがないように、本来の目的を忘れて寄り道に熱中できる人生の方が面白い気がする。

『悲惨な状態でも喜びを見出す、イタリアン・シンキング』


 「物事が望むようにならなかった時、どれだけ柔軟にそれに対応して、その中で人生を楽しむことができるかが重要である。イタリア人はその能力に破格に優れている」
よくある映画のワンシーンで、危機的な状況の時にジョークでユーモラスに会話するシーンが僕は好きだ。あんな風になれるにはどうすれば良いのか。
人生が思い通りにいかなくても、その中で最大限楽しめるものを見出していくのはカッコ良い。

『実用性より、美しさで決める』


イタリア人は直感を重視する。普通、人生の選択をするための判断基準には、「どちらが合理的か」「倫理的にどちらが正しいか」「どちらが自分を高めてくれるか」「どちらが自分らしいか」などが挙げられる。しかしもっと直感的になると、「好きか、嫌いか」「美しいか、美しくないか」ということになる。ビジネスの場や公の場で「好き嫌い」を言うのは普通は憚られるが、イタリアではこの直感的審査眼を合理的説明と同じくらい重視される。「美しくないから、嫌だ。」という選択肢を持ちたい。

『待機主義』


イタリアはサッカー王国だ。なぜイタリア人とサッカーは高相性なのか。それは「サッカーのゴールは小さな努力を地道に積み重ねて実現されることよりも、突然降って湧いた幸運をうまく捕まえた場合に実現されることが多い」からだ。人生の他のことにおいても同じで、「緻密な計画を立ててそれを遂行すると言うことは、それ以外の可能性を潰してしまう可能性がある。だから心を無にして、フリーハンドで、アンテナだけを敏感にして、そん時々のチャンスをつかまえていく。」彼らをメッシ派とよぼう。

『食卓でわかる、信頼される人の条件』

「食卓で人を評価する文化」は日本にはない気がする。食いっぷりがいいと褒められる程度か。あるいは「茶道」のようなものが近いかもしれない。
食事というある意味本能的な行為をする場では、人間の本性がでやすい。会社のミーティングではちゃんとしてても、食事の場になるとボロが出やすい、とか。イタリアでは、食卓では自分をアピールしたり、逆に相手を見定めたりと、お互いに役者と観客の役割を入れ替わりながら、さまざまな活動をしなければならないので、時間がかかるらしい。しかし、力む必要はなく、筆者曰くイタリア人にとって一緒に食事をすることは、日本人にとっての一緒に温泉に入るようなものだ。と言っている。

まとめ

「何かを得るには、何かを捨てなければならない。」という言葉を思い出した。イタリア人と日本人は性格的に両端に位置すると思う。どっちかを選んだら、どっちかを捨てよう。


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