あと1年と言われましても 〜メモワール(5)〜
(5)
新年を迎えた。2024年 元旦
「明けましておめでとう、どぶちゃん!去年は心配かけてごめんね。今年もよろしくお願いします!」
「明けましておめでとう、なむちゃん!元気になって良かったね!こちらこそ、今年も来年もずっとよろしくね!長生きしてね」
「よっしゃ!まかしとけ!」と当然のように言う夫。
でも、本当に長生きするかもしれないと思った。末期がんの人が寛解したり、進行が緩やかになったりすることは珍しくないし。
だって、目の前の夫は病気前とほとんど変わらない。だから希望も持ってしまう。
県外から正月の里帰りしてきた夫の兄弟たちは、義理母と同じマンションに部屋を借りている私たちとも会って、再度お見舞いをくれた。
本当に申し訳ないと私は頭を下げた。でも夫は「ありがとう!」と笑顔で受け取っている。兄弟たちも、ほぼ変わらぬ夫を見て安心して、「お返しとかいらないからね、元気でがんばってくれよ!」と笑顔で帰っていった。
夫に新年会の誘いがきた。退職して10年経つのに。
「当時の上司が早期定年退職するから、新年会と送別会を一緒にするんだって。行ってもいいかな」と相談された。
いつもなら目的地まで送っていくけど、さすがにちょっと妻同伴って訳にはいかないかな、と思った私は、「電車に乗って、夜ひとりで帰って来れる?」と心配した。
「大丈夫だよ、前の職場の近くだから。知らない場所じゃないし」
「帰りはタクシーに乗って帰ってきていいよ」と言うと
「お金は節約しないとね。電車で大丈夫」と答えた。
駅まで迎えに行くと私が言うと、「夜遅くにどぶちゃんが迎えにくるほうが心配」だそうだ。
たまには私のいない時間も必要かもね、と思い了承した。
当日、新年会へ出かけて、終電で帰ってきた。
「楽しかった?」と聞くと「お酒は飲んでないけど、ウーロン茶でもじゅうぶん楽しかったよ」と答えた。
いつもなら、外から帰ると倒れるように横になるのに、今日はソファーに座ってテレビを見ている。
「今日は寝転がらなくて大丈夫なの?もう遅いし、お風呂に入ってきたら?」と私が言うと、
何か言いにくそうな感じの夫は「あのね……」と切り出す。
それは私にとっては衝撃的な内容だった。
ここからすべてが狂い始めた。
「あのね、実は……帰りの電車でコケたんだよ。でね、怪我しちゃって。今日はお風呂に入らないほうがいいかな?……ごめんね、心配すると思ったから、なかなか言い出せなくて……」
黒の綿パンだったからわからなかったが、急いで脱いでもらうとヒザやスネに結構な擦り傷ができていて血だらけだった。
そして長袖のパーカーを脱がせるとヒジも血だらけだった。
この傷を見て私が最初に思ったのは、『大人が普通に転んで、こんな傷にはならない』ということだった。
「どの辺でコケたの?」
「電車の扉ところで……」
「足が引っかかって?つまずいたの?」
「それが……気がついたらコケてた……」
「……記憶が無いってこと?」
「……うん。気がついたらもうコケてて、同じホームにいた元同僚が気づいて駆け寄って来てくれたみたい。俺を起こそうとしてくれてるところからしか思い出せなくて……その同僚が心配してさ、自分の駅じゃないのに一緒に降りてくれて、家の近くまで付き添ってくれたんだ。ごめんね、どぶちゃんが心配すると思ったから、何て言おうか迷ってた。でも、俺は大丈夫だから。平気だし」
恐怖しかなかった。恐れていたことが始まった。
きっと電車の自動ドアのところで、糸あやつり人形の糸が突然切れたようにコケたんだろう。
だからまったく受け身を取っていないかのような傷ができているんだ、と思った。
これはもう、幸せほのぼの生活に終止符を打つ時が来たんだ、と感じた。
夫の傷口を手当して、身体を拭いて、その日は就寝した。もちろん私は一睡もできず、ずっと夫の身体に手を置いて、温かみを感じながら不安と戦っていた。
次の日。
秘密にしていた余命の話を夫に伝えた。
早ければ年内と言われていたが、それを超えた。余命なんて主治医が決めることではない、自分が生きれるだけ生きるのが寿命だと言うことを、言葉を選んでじっくり話した。
「そっか、だからみんなあんな感じで俺に会いにきたり、心配したりしてたんだね。わかった!俺はがんばるよ、これからも生きて、どぶちゃんと幸せな老後を送る!作曲もがんばる!」とあっさり。
落ち込むことなく、前向きな夫。
「俺が死ぬのはしょうがないけど、どぶちゃんがひとり残されるなんて可哀想だからね。どぶちゃんには俺がついてるよ!大丈夫!これからはどぶちゃんのためだけに生きていくよ!」
私も『生きていてくれたらそれだけでいいよ!』と思っている。でもそれだけでは生きていけない。
もうひとつ、話さなければならないことがある。
「もうすぐ貯金や見舞金が尽きようとしてます」と報告した。
夫は「え?まだあるよね?」と言う。
確かに。まだあるが、夏には底に付く。節約しても秋までもたない。だからこそ、今が決断の時だ。
「これからのことを考えると、もう家賃は払えない。私が働きに出るにしても、病院代がプラスで出費がある今は、その分の収入を上乗せで稼がないといけないけど、そんな高収入な仕事を私は見つけられない。削れる支出は家賃と考えるのが妥当だと思う」
そう切り出すと、夫が頭を抱えた。
「俺の両親と一緒に暮らすか、みきさんと一緒に暮らすか……ってことだね」
私はうなずいた。
「どっちも嫌すぎるなー!」と悩んでいる。
「でも俺が悪いよね、どぶちゃんに甘えて今まで収入ゼロのまま来ちゃったし、俺が病気にならなければこんなことにはならなかったし。ほんとごめんね。でもなー、どっちも嫌すぎて、すぐには決められないよー!」とため息をつく。
「俺の音楽がすぐお金になったらいいんだよね、2ヶ月だけ時間をくれない?俺、がんばってみるからさ!パソコンもマイクも買ってもらったし、準備は整ったから今日から勉強を始めるよ。だからもう少しだけ待って!お願い!」と懇願された。
「じゃあ春まで待つよ。なむちゃんが入院した3月まで待つ。その代わり、どっちと一緒に暮らすか、その返事も同時に考えといてね」と交換条件を出した。
夫のことは私も認めている。センスもあるし、もしかしたらって願いもある。でも申し訳ないが、この10年稼げなかった人が2ヶ月で収入を得られるようになるとは考えにくい。
そもそも繊細さんの私はこういう時にマイナス思考しかできない。
さあ、夫はどっちを選ぶんだろう。
どっちにしても引越しは決定したも同然だ。
売れるものを売ったり準備を少しずつ進めなければ。
引越し先が決まらなければ私の次の仕事も決められない。
これから弱っていく夫を置いて私が働きに出るのはツラい。でも元気なうちに一緒に過ごしたこの1年は本当に幸せだった。
特別なことは何もしていないけど、夫の好きな物を手作りして、それを食べては「美味しい!」と言ってくれたり、自転車で出かけたり、ちょっと遠くまで電車でランチを食べに行ったり。
(散歩したり公園に行ったり美術館に行ったり……運動の代わりだったけど、手をつないで歩いて回ったことを思い出すと、夫の手の温もりや、指の力の入れ具合など、今も鮮明に感覚が残っています)
これからどうなるかわからない。だからこそ体力となる「お金」が必要。夫を守るためにも、将来ひとりになるであろう私のためにも、貯金が尽きる前に働かなければ。
(6)に続きます。
読んでいただきありがとうございます。
書くことで少しずつ記憶という重たい荷物を減らしていけるような気がしています。
noteに感謝です。
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