『憎しみ』(1995)
「保守的」でも「進歩的」でもない若者
この映画に出てくる若者は、パリ郊外の移民スラムに住んでいる。彼らの生活は大麻とコカイン、窃盗、どこのだれとヤッた、など反体制を無意識に背負ったものとなっており、映画終盤のレセプションパーティーでの「普通の人々」との所作や言動の違いが浮き彫りになる。彼らが自分たちの生活に満足していないことは、屋上で兄貴が弟を逃がす場面や、妹に学校に行くよう促す場面、たまり場と友人に近づくなと警告する場面(妹たちに茶化されていたが)からみてとれる。この映画での「大人」は、彼らの保護者ではなく警察であり、「体制」と「大人」の象徴として描かれている。若者はそのような「大人」にあたえられた環境/社会には当然おさまらず、頼りきることもない。
また、彼らは「進歩的」な若者として、大人の保護(トイレの老人や知り合いの警察などが善き大人として登場するが、彼らがほのめかすベターな生き方を信用していない/認知できない)から自立することもなく、「大人」から与えられた憎しみを自分の中に閉じ込め、友人たちと閉じたコミュニケーションを繰り返すのである。閉鎖的な状態にある彼らは常にいらだち、自分たちの外側に対して常に敵意を向けている。
むなしくも、「反抗すること」が彼らにとってのアイデンティティなのである。自らの居場所は反抗を通じて「悪ガキ」として護持するが、決して「悪ガキ」として認められたかったわけではない。彼らは他の可能性(与えられた環境に満足し、頼り切ること、別の考えを受け入れ改善してくこと)を欲することができないのだ。諦めを素地として「反抗する」。よりよい生活のためにではなく、「文句あるか お前ら!」と言うために。
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