「無論」

“当たり前”とは退屈である。
不遜な話であるが事実である。
我々は悠々と日々を過ごしており、何の変哲もない日々に退屈であると考える。
私は高校3年生だが進路が決まっており、
授業も聞かずデジタルに身を置くことで日々の暇を消化することにしている。
勿論楽しいとは言っていない。ただの暇つぶしに過ぎないのである。
人間とは利益を求める生き物であり生産性のない社会に満足することを許さない
私の事例を述べたいと思う。
高校生にとって異性と話すことはとても楽しいことである。
一番青春を感じるし、学校での会話、家でのやり取り、電話、デートなどなど
異性といるのは些細なことだけでも楽しいと感じる。
好きな人のインスタを交換してフォローしフォローが返ってきた時の
新鮮な嬉しさやDMで何を話そうかと考えている初々しい一時がたまらない。
だがいつかは飽きが来てしまう
私は飽き性だがいつかはみなも飽きてしまうだろう。
生産性のない会話、何度も見た後景、繰り返すごとに新しいものを求めたくなる
それは異性に対して最初から利益を得ようと考えているからである。
親友だったとしたら利益を求めようとしない。
なぜならその人にとって親友であるということが利益になっているからである。
どんなに些細なことでも楽しく感じるときには辛いことを相談し合える。
これらのことが出来るだけで満足できてしまう。
当たり前を“退屈”だと感じてしまうのは利益を求めようとするからである。
利益を求めるのはごくごく普通のことで求めない方がおかしい。
だから時には逃げたっていいし、自分に失望し、泣いてもいい。
高校3年間の当たり前が大学生になって続くとは限りなくゼロに近いし、
利益なんて日々求めなくていい。
当たり前で“退屈”だと思っている日々こそが私の最高の利益である。


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