山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

「草枕」 岩波文庫 夏目漱石:以下、断りなければ同

春の野を行く画工のゆったりとした歩みそのもののように、俳句調の名文で始まる。
知性に訴えれば角が立って衝突する。感情に基点を置けばそのまま流されてしまう。意地(あるいは現代風に言えば意志)で貫こうと思っても、なかなか思う通りにはいかない。だから人の世は住みにくものだ。
人間の悟性の三角形の中に自分を置いたときに、どの角にも問題があって、居心地が悪い。ここで重要なのは、これら全てが「他者」を想定していることだ。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

この、「向う三軒両隣りにちらちらするただの人」というところが良い。イメージは江戸の長屋のようなものだろうか。せわしなく窮屈な下町の雑踏。住みにくいのは他者との関係においてそうなるのだが、ほかでもないその他者が人の世を作っているのであり、また自分も他者から見れば同じ他者なのだという視点。それを、「ただの人」と言っているところが良い。最後の文は、人間そのものから逃れられない人間存在への皮肉である。

越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。

ここは非常に重要な文である。
住みにくいと嘆くのでは能がないから、そこをなんとかくつろいでみせようじゃないか、と言うのだ。ここがメランコリックであり、同時に楽天的だ。

住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。

そこで芸術の問題に至るわけだが、ここで注目すべきは「ただまのあたりに見る」ということだ。以下の漢文調の文章は、その点を強調するものだ。
漱石の文章には、このようにA,B,C,と続けて注意を引きつけておいて、最後にポンと短く、ある品物を提示するようにして書かれた文章が多い。

着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、──千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。

詩的感懐を敢えて紙に記さなくても、それはその者のうちにすでに湧き起こっていることだ。よく物を見ることができる画家は、すでにこの世界を美的に見ている。「ただまのあたりに見る」とは、視覚的に物を見ることを言っているのではなくて、個人が美的に鑑識することである。

世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏のごとく、日のあたる所にはきっと影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。──喜びの深きとき憂いよいよ深く、楽みの大いなるほど苦しみも大きい。

今や二十歳で住むに甲斐ありと知るのもなかなか難しい世である。続く文章が僕は殊に好きである。日のあたるところにはきっと影がさす。喜びの深いとき憂いはいよいよ深い。
小説の後半で、彫刻の動と静の問題が出てくるが、漱石にはこういう傾向もある。つまり、A⇆Bという相反する概念の間を振り子のように揺れるうちに、ある一つの平衡に達する形式。しかもその両者を別々に見ないで、全体において捉えようとする心の働き。単に中庸と言って間を取るわけではないこの態度に、僕は非常になにか音楽的なものを感じるのだが。西洋と東洋を衝突させたNovember Steps(武満徹)を想起する…

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