神学 不条理について


■非条理神学/不条理について(ないし、その裏に隠された条理について)

・不条理と非条理がある

・不条理とは、「わからないけれどわかるもの」である。つまり、暴力、である(より言えば、実質的に暴力を受けていると感覚されることは、すべて不条理と呼ばれる)

・非条理とは、「わかるけれどわからないもの」である。つまり、神、である(より言えば、実質的に神と感覚されること、すべては非条理と呼ばれる)

・不条理を非条理のもとにすべて捧げるのである(具体的には、非条理が、不条理を超えているということ自体)

・人間が、人間を、自然界が、人間を、その暴力の脅威にさらしたり、さらされることは、不条理であり、それ自体は、極論、"意味がない"

・不条理は非条理によって、救われる

・不条理に対して、条理(人間の理解など、つまり、人間性の総体や全体)は、とどかない

・不条理を超えうるのは、非条理のみ、である

・不条理は、メタ的には、条理、のトポス内であり、条理の一形態である(条理の全景がなければ、そもそも、不条理も把握、"さえ"、されない)/不条理は片側からみれば、条理、なのである(実無限に対して無無限さえ、無限、というトポスの一形態である/理解と把握、は、場合、によって、実は蜜月なのである/ロゴスとレンマが、"と(性)"、によって、ひとつの系になるように)

・言い変えれば、〈出来事〉に対して、条理はロゴス、理解可能であるゆえに非暴力とされ、不条理はレンマ、把握可能であるゆえに暴力であるとされる(暴力と非暴力、は、その、"と(性)"によって、分かちがたい/ロゴスは〈出来事〉を非暴力化した現実に変換するが、レンマは〈出来事〉を暴力化した現実に変換する)

・「車がきて危なかったので、突き飛ばされた」は理解され、非暴力、「なぜか突然、突き飛ばされた」は把握され、暴力

・だが、いずれも、〈出来事〉における、ダメージ、は残る、のである

・この、ダメージ、を物語化(ロゴスーミュトス化)することが、ダメージから、人間を保護的に現実化する。この、ダメージ、をトラウマ化(レンマーミュトス化)すると、ダメージから、現実が(を)保護的に人間化される

・だが、非条理は、条理に非ざる、であり、不条理ー条理系の、その系、を超えている

・不条理に対して、条理を用いて戦うことは、あらたな不条理を生成してしまう

・条理ー不条理、"もろとも破棄"、するのである(これは、非条理によって、人間性ー全体性もろとも破棄されることを意味する)

・非条理にさらされる、ということである

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?