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今出平(こんでびら)砦について

愛知県新城市に今出平(こんでびら)と呼ばれるところがあります。

今出平は平安初期(793年)に健児府がおかれた所であると村史に書いてあります。健児府というのは今の徴兵所のことで、20歳から60歳の三分の一が徴兵され軍団となっていたようです。
1027年に健児府が廃止された時に、役人でありこの地に居残った鈴川氏一族が永住する目的で林野を開拓して開村の準備をしていた同時期に、東に数キロ離れた徳定という所からも白井氏一族が来住、大いに耕土が増え、鎌倉時代(1441年)に至って村里と認められるようになったようです。

今出平の歴史

この、今出平(健児府跡地)に砦(城)が築かれた時代がありました

砦跡地の地図

今出平城(1505年~1590年)
 戦国時代、この地一帯(野田館周辺)を治めていた冨永氏の相続問題の解決策として、設楽の田峯城主・菅沼定忠の三男を迎え入れる話が持ち上がり、定忠の家臣である「城所六右衛門信景・道寿入道道喜斉」が三男竹千代のお供として田峯からここまでやってきました。
 竹千代が野田館に入り「菅沼忠則」として初代野田城主となり、家臣の城所信景は健児府跡地に砦を築き、田峯、額田方面の押さえとなりました。


現在鍬社と呼ばれる神社がある

今出平城跡を散策しました。鍬社という神社となっており地元でお祀りされております。周辺はわずかな土塁跡があるような無いような、西に屋敷跡があったのではないかと思われるような・・・全く知識がないため想像することしかできませんが、とにもかくにも秀吉がこの地を治めるまでの85年間存在していたのは間違いないようです。

初代砦城主・城所六右衛門信景・道寿入道道喜斉
二代目  ・城所助乃丞清庵
三代目  ・城所助乃丞清緑
四代目  ・城所助乃丞清蔵
五代目  ・城所善太郎次左衛
六代目  ・城所弥七郎
 
三代目清禄は今川方として戦い後に上杉謙信に従ったようです
四代目清蔵は菅沼定盈の家臣として関東に随伴したようです
五代目は跡地を任され当地に残り、六代目は三代目の跡を任され
七代目で帰農し現在に至る 広大な土地をもっていたようです。


鍬社

この地域をかつて諏訪部曲が治めていたころから鍬社があると思われるが、鍬社は諏訪神社と関係がありそう。(詳しいことはわからない)
この地図には鍬社の西側に城跡があったと書かれている。現在は三河カントリーの敷地に続く緩やかな山になっている。この山に沿って北西に登っていくと本宮山(三河一宮)に続いていく。
かつて今出平の南西にあった長者屋敷から本宮に続く道、大洞山泉龍寺から本宮に続く道との合流地点につながる。

田峯から竹千代を連れてきた、城所氏にしてみれば、竹千代を守るにはとても良い環境だったと、私は勝手に推測している。

城所氏の子孫であるというおばあちゃんに話を聞いたことがある。
おばあちゃん曰く、昔は学校に行くのに自分の敷地以外の道を通ったことが無かった。それほど土地があったが、庄屋の制度が廃止され小作に分けられ土地がなくなっちゃった。とのこと。
もう少し仲良くなって、古い地図やお話をもっと聞いてみたいものだ。

今出平城の入り口には、現在地元の郷土研究会による「旗」が立てられています。