衝撃しくじり企業日活とは。
日活とは日テレとスカパーの子会社の小さな映画会社である。かつては大手映画企業の一員だったがなぜ日活はテレビ局の子会社になってしまったのか。
歴史
1912年に横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産活動写真商社4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として日活は創業した。
復活というロシア文学の映画を上映したり向島撮影所を作った。(1923年に向島撮影所は関東大震災で消失)1926年に業績が下降すると経営権争奪戦争が起きて松竹と東宝の両方の関係会社になる。
1942年には日活制作部門が新興キネマと大都と合併して大映になり失う。
しかしここから苦労をして黄金時代を築くことになる。1954年国定忠治が公開。五社協定という締め出しに負けず調布撮影所を建設していき俳優を引き抜いたりした。丸の内日活劇場や日活日比谷ビルが立ちついに日活は映画会社として復活したのである。しかし日活はあるしくじりにより日テレの子会社になってしまうのである。
しくじり
そのしくじりとは映画館などの優良な一等地を売却してしまったというしくじりである。
1964年に丸の内日活劇場や日活国際会館など基盤となる劇場や土地を売却してしまったというミスである。皇居の近くの土地は超一等地であるのに売却してしまったのである。不動産が赤字だがら売ったと思われるが基盤劇場などの土地は日活ロマンポルノ映画を全国に上映したりストリップ劇をやったりして黒字化は可能だったからです。事実日活のポルノ部門は1990年代まで黒字でありロマンポルノで稼いだお金で劇場を複合施設として再開発すれば日活は生き残りテレビ局の子会社にならずに済んだかもしれない。
ていうかどれだけ映画館という一等地を売却しているのだろうか。
千本日活館
名古屋日活劇場。
丸の内日活劇場
両国日活映画劇場
郡山日活劇場
神田日活館
立川日活劇場
藤沢日活劇場
池袋日活劇場
鶴見日活劇場
仙台日活劇場
布施日活劇場
梅田日活劇場
まさかこんな一等地の映画館を日活が売却するとは。
基盤の劇場を再開発して生き残ることは非常に大事であるという事が分かりました。(副収入を作ること大切であるのも事実。)
パラレルワールドの日活。
なぜ日活のしくじりを書いたかというと1960年代以前の日活は興行にも制作にも強く再開発できる一等地を持っていたからである。もし日活と東映と大映が1960年くらいに合併して東宝と互角に競争したら日本の映画業界の歴史は変わっていたかもしれません。
もし東映が1960年代以前の映画興業に強い日活を買収していたらオシャレなイメージがつくだけでなく東宝のお隣さん(日比谷パークビル)に本社を構えて仁義映画を作ることはなかったかもしれません。また東映は皇居の近くの土地を再開発して不動産に強かったかもしれない。
なぜ東宝と子会社の新東宝(国際放映)が松竹、大映、東映、日活に映画興行収入で勝利したかというとテレビ局の映画を配給する力を持つほどの全国の興業網(実はほとんどが池の土地だった)を作ったこと(百館主義)、映画製作という赤字事業を停止させて止血して不動産開発やテレビドラマに事業中心を転換させたこと、家族でも安心な映画館イメージを死守したことが東宝が松竹、大映、日活、東映に勝利した要因である。
東映にはアニメと低予算映画という安定的収入があり、東宝には不動産やテレビ局映画という収入があった。
日活にはポルノ映画という収入があったが一等地を売ってしまったことでポルノ映画を全国に広げることができずに日活はテレビ局の子会社になるほど弱体化してしまったという事である。
なぜ1960年代以前の日活と東映が合併していたらシナジーを創出できるかというと東映は映画制作には強いが興業に弱く日活は映画興業には強いが制作に弱いという互いの弱いところを補う事ができた可能性が高いからです。
もし日活が基盤劇場を売却せずにワーナー・マイカルシネマズを買収していたら日活は東宝と並ぶ映画会社になっていたかもしれません。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
参照
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