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気づき

先日、割と人生において大事なことに気がついたんだけど
言葉にするととても安っちいので
丁寧に記そうと思う。

自分は幸せに過ごしていいのだ と言うこと。

ね、安っちいし、なんか胡散臭くも聞こえるし。
でもこれが割と大事だったりして。

パン学校を通して色んな挑戦をする未来が見えてきた時、
自分に足りないものが、それはそれは多いこと。
可愛い子には旅をさせよとはよく言ったもので、
自分のできる範疇以上のことをしてこなかったから育たなかった部分だ。

夫氏はその点、とても長けていて、
言葉の通じないところで自分がどれだけ生きられるのか
なんて言う欲求と自転車を持って、軽々海外に行ってしまう。
新潟に移住したのだって、寒いところで耐える生活をしたいみたいなことが理由だ。

だから、大先輩にどうしたらそんな旅ができるのか聞いてみた。
結果、孤独を受け入れると言うことらしい。
一人間としての個を受け入れると言うことはとても心細い事だけど、
そうやって自分を知るのは、自分で自分を理解できると言うこと。
それを自らを愛すると表現するんだなぁ。
そう考えたら、自分探しの旅っていい言い回し。

その話は、10年も共に過ごしていれば何十回と聞いていて
正直、孤独になりたいなんて、なんて幸せなやつなんだ!と思っていた。
周りに人がいて当たり前の世界。助けてくれる世界。
食べ物にも困らない、ライフラインも当たり前にある世界。
そんなに恵まれた環境を捨て去りたいなんて!なんて贅沢!ね!

でも本当にその幸せに気づいていなかったのは私の方だったのだ。
私自身も幸せすぎる生活を窮屈に感じていたはずなのにその声を無視し続けてきた。幸せの重い荷物を下ろすことは、お世話になった人や環境に対して失礼なことだとも思っていた。
その"幸せすぎるなあ"と言う本心を、自分の周囲を「悪い環境」にすることでうめいていたんだ。
「人の粗を探す」とか「愚痴を言う」とか
色んなことに不満を持って生活することでバランスをとっていたんだろう。
自分は幸せになってはいけない人間なんだと、いつの間にか思っていたみたいだ。
そしてその反動がいつの間にか自分の中で大きくなって、いつも満たされない自分、になる。それに酔って縋って生きる。これがいわゆる依存なんだ。

ここからの脱却方法は、
自分は幸せだ!と思い込むことではなく、無理やり色んな事に有難うと思うことでもなく、自分は幸せになっていい人間だと気がつくことだった。
さらに言えば、ただただ自分の力で生き抜くことだ。
幸せかどうかなんて結局人間が決めたものさしでしかない。
幸せに生きたいと願うことこそ傲慢、みたいな。
すごい宗教みたいなこと言ってる〜。けど結局そう言うことなんだ。
目の前の恵みに感謝して生きる、ただそれだけで十分。

色んな事が早くできる様になって、色んなものが当たり前に買えるような人間が楽になった世界は、傲慢と不満に溢れている。
その先に、私の望む「満足な死」が存在する可能性はものすごく低い。
それは様々な医療現場を見ていて、色んな生き様も、死も、家族関係も見ているからわかること。
だから、目の前にある恵みを、素直に受け取ろう。それが私にとっての長旅、第一弾。
そう思ってから、身も心もまっさらになれた。まさに旅の始まりって感じ。

自分が作るパン屋は人々が満足に生き抜くための拠点となるものにしたい。
パン屋ひとがたけを知って、自分の力で生き抜くことの素晴らしさに気づく人がいたらいい、そして踏み出せる人が増えたらなお嬉しい。
パン屋を踏み台に、自分の力で生き抜く力を身につける人が増えたらいい、その先の未来が穏やかであればなお嬉しい。
私はそこにパン屋として存在するだけでありたい。そんなパン屋を作りたい。

ここにこうやって書いたから、多分大丈夫だな!
誰かが紙(紙じゃないけど)に書いたら夢は叶うって言ってたもん。
楽しみ楽しみ。今日も1日、地に足つけて生き延びる。

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