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魔がさす

「治にいて乱を忘れず」とは
松下幸之助さんが好んで使っていた言葉です。

人間やはり人間。
神様でもAIロボットでもありません。
やはりそこはあまり考えたくありませんが
「魔がさす」ことがあります。

「魔がさす」とは
精神的なこともでもあり
肉体的、金銭的なもの色々あると
考えます。

天台宗大阿闍梨でもある
酒井雄哉さんも
著書に自分の経験を
赤裸々に開示しておられます。

酒井さんがまだ
僧侶にもなっていない頃
蕎麦屋で働いていた時
まだ十代で働いていた女性に
いたずらしたことがあるそうです。
(人の心には闇があるp62)

それを思い出した
酒井さんは


「仏さんにはみーんなお見通しなんだな。
だから、たえず一生懸命、ざんげして、
自分を律していかないといけないんだよな。」

p65、同書

とかい術されています。

私はこの言葉を
素通りすることはできません。
なぜなら、私にも胸に手を当てれば
他山の石のように感じることがあるからです。

ヒヤリハットの法則というのがあります。
何かに「ヒヤリ」となったり「ハット」ミスに気づくことがあります。
それが300回あると事故があるというのです。

いわば、それはその人にとって
好きで行為に発展するものではないもの。

「魔がさす」ということにも繋がります。

私も「魔がさす」ことで
今まで何回も失敗しましたので
もはやアラームを10個ぐらい頭の中に
置いておかないと気が済まないほどです。

それくらい「魔がさす」とは
自分が悪に手をだすことであり
誰かに損害を与えることです。
確かに書いていても看過できません。

では「魔がさす」ことを
100%なくせるかというと
前述したように私たちは神でもロボットでもありません。
ですから、数%減らす努力はできる程度だと私は考えます。

ただその気配に感じ取ることは
できると思います。

その方法を考えます。

それは書くことです。
日記でも良いです。
ジャーナリングでも良いです。
noteも他の人に見られる分、緊張感があって
良いかもしれません。

文章に今の自分を見える化することにより
自分の「事故洞察力」を
高めることができます。
それには定期的に
書いたもの(noteなら過去の記事)を
読み返すことも必要でしょう。

自分語りの必要性は
こんな要素も一つだと思います。
何も「魔がさす」ことばかりのために
noteを読み返さなくても良いでしょう。
それは楽しい思い出でもありえます。
記事の思いのフィードバック(振り返り)
ということです。

このことに
完璧な答えはありません。
それでも、私たちは生きる上で
避けては通れない生活の要素の一つです。

先の「一日一生」の著者である
酒井大阿闍梨さんの言葉は
とても純粋な語り口で
思いを語ってくれます。
読んでいて綺麗な気持ちにさせてくれます。

何も一日中気を張っていることはありません。

このnoteもこのような意見もあるのだなくらいに読み飛ばしてください。

そのほうが良いことも
世の中多々あります。
これは私のアーカイブですから😅

では また
おわり

koseidaikiさん素敵な比叡山の
フォトありがとうございます。

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