見出し画像

「イエス・キリストは三位一体の神である」を検証する

イエス・キリストは、神か人か、神の子か。

いわゆる正統派を自称するキリスト教は、イエスを神とする。そして、「神は唯一」との聖書記述との整合性を計るため、イエスは唯一の神(父なる神)と一体(または同一)とする。さらに、正統派は、聖霊も神であるとし、父なる神と子なる神と聖霊なる神の三つをそれぞれ神とし、それらがひとつの神とする説(三位一体説)を採る。

この説を理解できる人がいるのだろうか。筆者は、理解できない。
正統派キリスト教が採る三位一体説を、聖書から検証してみたい。

※本文中の引用聖句は、新改訳2017を使用する。この聖書は、三位一体説に寄った翻訳として知られている。

1 聖句から検証する

1-1 すべての造られたものより先に生まれた方(コロ1:15)
イエスは、被造物ではなく生まれた。つまり、神から「生まれた」のである。「生まれる前」の概念があることを示唆する。

1-2 これはわたしの愛する子(マタ3:17、マタ17:5、マル1:11、マル9:7、ルカ3:22、1ペテ1:17)
神はイエスを「わたしの愛する子」と宣言した。父と子の上下関係を示唆する。

1-3 イエスは神をわたしの父と言う(マタイ書11箇所、ルカ書3箇所、ヨハネ書22箇所、黙示録2箇所)
ヨハ20:17 わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る
イエスが神を父と呼ぶのは、1-1のとおり、神から生まれからにほかならない。また、わたしの神とも言い、父なる神は、イエスにとって父であり神である。

1-4 イエスは自分を「神」と言った箇所はない

1-5 悪魔の試みを40日間受けた(マタ4:1-11、マル1:13、ルカ4:2-13)
イエスが神でないからこそ、悪魔は試みたのだ。悪魔は、イエスを「神の子なら」と言っており、イエスを神としていない。

1-6 良い方は神おひとり(マル10:18)
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。

1-7 イエスは終わりの日がいつであるか知らない(マタ24:36、マル13:32)
イエスが知っていたのに知らないと言ったのであれば嘘になるし、知らないのであれば、神自身ではない。

1-8 イエスは「生ける神の子キリスト」(マタ16:15-17)
イエスが弟子に「わたしをだれだと言いますか」と尋ねたとき、「生ける神の子キリスト」と答えたペテロを幸いとした。
神の子であり、自分を神としなかった。

1-9 ヨハネの福音書が書かれた目的は、イエスが神の子キリストと信じるため(20:31)
イエスが神と信じるためではない。

1-10 わたしの名によって求めなさい(ヨハ14:13-14、14:26、15:16、16:23-26)
イエスの名は、ヘブライ語でヨシュア。ヨシュアは、「ヤハウェは救い」という意味。

1-11 神は目に見えないが、イエスは見える
ヨハ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。
1ヨハ4:12 いまだかつて神を見た者はいません。

1-12 ゲツセマネの祈り(マタ26:36-44、マル14:32-42、ルカ22:41-46)
この祈りは、人の子イエスから、神である父への祈りである。イエスが神自身でないからこその祈りである。

1-13 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46、マル15:34)
あれほど神をわたしの父と親しみを込めて呼んでいたイエスが、木に架けられ、呪われ、捨てられ、もはや父と呼ぶことができなくなり、苦しみのうちに「人」としてわが神と呼び、断絶の恐怖の中で出た叫びと言える。このイエスが、神自身であったと言えるだろうか。神自身が自分に向かって言っていたのなら茶番である。

1-14 父、子、聖霊の名においてバプテスマ(マタ28:19)
「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とあるが、使徒の働きのバプテスマの記述は、「イエスの名」で授けている。
使徒2:38 イエス・キリストの名によって…
使徒8:16 主イエスの名によって…
使徒10:48 イエス・キリストの名によって…
使徒19:5 主イエスの名によって…

1-15 イエスは、神の右に上げられた(使徒2:25、2:33、5:31、7:55、7:56、ヘブ8:1、12:2、1ペテ3:22)
神と同一でもなく、一体化もしていない。また目に見える(1-10参照)。

1-16 パウロ書簡の冒頭のあいさつはすべて「父なる神と主イエス・キリストから」となっている。
パウロが、三位一体の位格のひとつとされる聖霊をあいさつに含めない理由はあるか。三位一体の神を前提としていないからである。

1-17 屠られた姿の子羊
黙5:7 子羊は来て、御座に着いておられる方の右の手から巻物を受け取った。
子羊(イエス)と神とは別の存在で、巻物の受け渡しを行う。同一または一体であればこのやり取りは不要である。

1-18 2つの名
黙14:1b また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。
父と子にそれぞれの名がある。マタ28:19(父、子、聖霊の名(単数形))と矛盾する。聖霊の名は、聖書のどこにも記載されていない。

1-19 父、子、聖霊
「父、子、聖霊」を言及した聖書箇所は、マタイ28:19の一箇所のみである。翻訳の仕方に問題がある可能性がある。

2 聖書にある型から検証する

2-1 アブラハムに初子イサクを犠牲に捧げさせたのは、神が初子を犠牲にする予型と言われる。イエスが神の子であるれば、予型に一致する。イエスが、神自身だと予型に一致しない。

2-2 神とアブラハム・イサク・ヤコブが契約(結婚)し、神とイスラエルの間にイエスが生まれた。
イエスは、神の子(神が父)であり、人の子(イスラエルが母)である。
イエスは、花嫁(霊的イスラエル)と結婚する。
神の妻は、イスラエル。
イエスの花嫁は、霊的イスラエル。
イエスが神自身(父と同一)であれば、二重婚になる。

2-3 男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる(創2:24)
神の子イエスも父なる神から離れ、花嫁(霊的イスラエル)と一体となる。
イエスが神自身(父と同一)であれば、二重婚になる。

2-4 花婿イエスは、父にとりなしをする仲介者である。
1テモ2:5 神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。
神の子イエスは人となったのだ。イエスが神自身なら仲介者は不要である。

2-5 神は創造主
言葉を通して全てが創造された(ヘブ1:2)。
・神が創造主=施主
・言葉が創造者=大工
創造物が壊れたので、大工が修理に来た。イエスは、大工の息子で大工。施主は、天にいる。

3 聖書は三位一体を示唆するのかを検証する

3-1 聖書に「神は唯一」「唯一の神」との記述が複数箇所あるが、「3つでひとつ」と示唆した記述はない。「父、子、聖霊の名」を言及した聖書箇所は、マタイ28:19の一箇所のみであり、この「名」が単数形であることから、一体だと言われている。しかし、初代教会は、この記述と異なる活動をしていた(1-13参照)。

3-2 イエスが死に黄泉に下った三日間、三位一体はどうなっていたのか。神の一部が死んでたのか。

3-3 三位一体が真理であるなら、言葉である神が、聖書の膨大な量の言葉を駆使して人間に理解できるように説明できないのはなぜか。人の創作であるからではないか。

3-4 三位一体の神を、人間が理解することはできないというが、そういう人は、三位一体をよく分からない、理解できないものと自ら告白しているのだ。三位一体が真理であるなら、聖書は、人に分かるように教えてくれているはずだ。

3-4 父なる神は理解できない神ではない
神は、愛、義、知恵、公正、力、全知、全能、唯一、YHWH、私はある・私はなる、創造主、ねたむ、怒る、恵む、御子を愛する、愛する御子を犠牲にするほど世を愛された。
聖書は、言葉を尽くして父なる神を表現している。人間に理解できない存在ではない。

3-5 人間は神の似姿に作られた
神が三位一体なら、似せて作られた人間は、なぜ一人でひとつなのか。

3-6 100%神、かつ、100%人
まったく意味不明。
100%人のときも100%神なら、死んだときも神なので死ぬ神になってしまう。神なら死ねないはずである。

3-7 人の子を悪く言う者は赦されるが、聖霊を冒瀆する者は赦されない(ルカ12:10)
一体であるなら、なぜ、人の子と聖霊で対応が異なるのか。

3-8 聖霊に位格があるという根拠が弱い
聖霊を注いぐ、聖霊に満たされ、聖霊を御父から受け、聖霊を受け、聖霊の賜物…
これらが位格あるものを表現していると考えにくい。

3-9 聖霊は神の7つの目と言われる(ゼカ3:9、黙5:6)
神の部分または能力(はたらき)であって別位格ではないのでは?

3-10 イエスは弟子を兄弟と呼ぶ(マル3:35、ヨハ20:17)
イエスが神自身なら、弟子を兄弟とは言わず、子と呼ぶのではないか。イエスは、永遠に神の子であり、私たちと兄弟だ。偉大なるお兄様である。

3-11 そもそも三神の元ネタは、紀元前にいくつかあり、バビロニアの三位一体(黄道帯の支配者であるシン(月)、シャマシュ(太陽)、イシュタル(金星))、ヒンドゥー教の三神一体(トリムールティ)、またはギリシア神話のカピトリヌスの三神である。

4 よく示される「イエスは神である根拠」を検証する

4-1 わたしと父とは一つです。(ヨハ10:30)
→「ひとつ」の原語は、同質とも訳せる。

4-2 わたしを見た人は、父を見たのです。(ヨハ14:9)
→イエスは父の写し鏡(2コリ3:18)
→本質の現れ(ヘブ1:3)
→神なら見えない(ヨハ1:18)
→ 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。(ヨハ6:46)
※イエスを通して神を見たということ。

4-3 ユダヤ人はイエスを「神を冒瀆する者」とした(ヨハ10:33、ヨハ5:17-18)
→神を父と呼んだのであって、自分を神としたのではない。神の子で神と同質であるので、等しくして当然である。神そのものとしたのではない。

4-4 ことばは神であった(ヨハ1:1)
→この「神」は、定冠詞のないGodで、the  Godと異なる。
→神の子であるので、人から見れば神のような方である。

4-5 エゴーエイミー(ヨハ8:58)
→エゴーエイミーは神の性質を表わす。神と同質だという意味。神の名ヤハウェを名乗り自分を神としたのではない。

4-6 神がご自分の血をもって買い取られた…(使徒20:28)
→独り子の血をご自分の血と表現した。我が子の血(や命)を自分のもの同然に表現するのはおかしなことではない。

4-7 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。(ヨハ20:28)
→人間トマスから見れば、イエスは神のような存在に違いない。イエスは神の子であり神と同質であるので、わざわざトマスの発言を否定する必要もない。また、トマスはイエスではなく天を見上げて神を讃美して言った可能性も排除できない。

4-8 大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの…(テト2:13)
→「大いなる神と、」とも訳せる。

4-9 御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。(ヘブ1:8)
→神が生んだ神の子で神性を持つという意味ではないか(ヘブ1:3、5)

4-10 神の子だから神
→王の子は、王子であり、王ではない。
→神の子は、神の子であり、神ではない。
→神の子も神なら、二神である。
※神の子の神性は否定しない。

4-11 イエスは礼拝を拒否しなかった
→神の子は、被造物の御使いとは異なる万物の相続者である(ヘブ1:2)。王子が国民に拝されて、それを拒否しないことは、王に対して不敬とはならない。神の子が、人間の礼拝を拒否しなかったからといって、自分を神としたことにはならない(マタ17:24-26)。

4-12 アルファでありオメガ
→性質のこと。神と同質だと言っている。神の子なのだから。

4-13 イエスは生き返らせた(いのちを与えた)
→ペテロもパウロも生き返らせた(使徒9:40、20:12)。

4-14 罪を許せるのは神だけ
→イエスはその権威を父から与えられていた(ルカ5:24)

4-15 神と等しい=神そのもの
→「等しい」と「そのもの」は異なる。
東京オリンピックの金メダルをある市長がかじった事件があった。後日、それと「等しい」メダルと交換されたが、仲間と一緒に表彰台でもらったメダル「そのもの」とは異なる。

5 まとめ

筆者は、聖書の神を知りたい、理解したいと思っており、自ら聖書を読み、調べ、考え、探究している。その中で、気づいた点を挙げてみたのである。
様々な観点から検証してきたが、三位一体説は、説得力に著しく欠けるものと言わざるを得ない。

筆者は、イエスは「生ける神ヤハウェの子キリスト」と信じている。

聖書の読み方は、人それぞれ自由であり、ある説を正しいとか、間違っているとかを、言いたいわけではない。

異なる説であっても、同じ福音の下にあるなら、神様は受容されるのだと思っている(マル9:39-40、ピリ1:18)。

福音とは何であるか。ヨハネが福音書を書いた目的を、もう一度見てみたい。

ヨハネ20:31
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

これに余計なものを付け足すことなく、そのまま受け取り、信じていのちを得ることが福音ではないか。多くの人にこの福音が届き、信じることを切に願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?