どうする団塊ジュニア世代(#22)<復活のイワクラ(超仮説回)>
introduction
敗戦後の第一次ベビーブームにより誕生した世代は「団塊世代」と呼ばれ、戦後日本の復興に大きな影響を与えました。
私は戦後日本を早急に復興せさるため、何者かが恣意的に第一次ベビーブーマーを団塊化させたのではと推察します。
あくまで個人的な見解ですので、ホラ話と思って読んで下さい。
今回は特に個人的な見解が強い超仮説回なので、ご理解願います。
恩赦
「恩赦(おんしゃ)」という言葉をご存知ですか?
恩赦とは刑事事件の内容や効力を消滅・軽減させるものです。
皇室の慶弔や国家的なお祝い事があった場合に実施されることが多く、大規模なものでは1989年の昭和天皇崩御の際に約1,017万人、最近では2019年の今上天皇即位の際に55万人が政令恩赦を受けました。
日本における恩赦の歴史は古く、中国の律令制を取り入れ701年に制定した「大宝律令」から実施されてたといわれています。
勿論、幕末期にも恩赦は実施されており、1867年の孝明帝崩御に伴い「ある人物」が恩赦を受けました。
その人物の名前は岩倉具視です。
岩倉具視
岩倉具視は1825年に下級公家の次男として生まれました。幼少期から才覚は認められるも、家柄に恵まれず不遇の時代を過ごしますが、黒船の襲来により転機が訪れます。
1858年に江戸幕府が「日米修好通商条約」の勅許(天皇の許可)を求めて堀田老中が参内(皇居に訪れること)した際に、大規模な反対運動(八十八卿列参事件)を首謀し頭角を現します。
1861年には孝明帝の妹「和宮」と14代将軍「徳川家茂」を婚姻させる「公武合体」を実現させますが、勢力を強めた尊皇攘夷派により朝廷から追放され蟄居(自宅謹慎)を命じられます。
その後、情勢は大きく揺れ動き1863年の「八月十八日の政変」により、岩倉を追放した三条実美らの公卿や長州藩の尊王攘夷派勢力が薩摩藩に追放され、1866年には長州藩と薩摩藩が同盟を結んでしまいます。
そのような先が読めない混沌とした中、1867年に孝明帝と14代将軍が時を同じくして亡くなり、岩倉が恩赦により復権するのです。
妄想に近いシナリオ①(維新の黒幕)
これは100%個人的な見解なので、妄想に近いフィクションだと思って読み進めてください。
1863年の「八月十八日の政変」辺りから岩倉と薩摩藩の連携は始まっていたと推測されます。
岩倉は「公武合体」の際に、将軍家茂に直筆で誓書を書かせた剛腕として朝廷内外に名を轟かせており、蟄居を命じられた後も薩長問わず尊皇派からは一目置かれる存在であったと考えられます。よって「八月十八日の政変」に岩倉が関与している可能性は否定出来ません。
一方、薩摩藩と長州藩は英国との会戦を境に「薩摩スチューデント」、「長州ファイブ」と呼ばれる留学生を密出国させており、英国との親交が秘密裡に進められていました。
なので薩長の下級武士を倒幕のエージェントとし、朝廷工作の窓口を岩倉とした英国シナリオが存在したことも否定出来ません。
英国シナリオとは日本の内戦に伴う武器等の販売です。
米国における南北戦争が終焉に向かう中、英国の武器商人は次のマーケットを求めていたのです。
多分、内戦の勝者はどちらに転んでも損しないシナリオだったと思われますが、一方的な展開では商いが成立しないので、戦力拮抗の為に「薩長同盟」は必須だったと思われます。
しかしながら大博打に出る岩倉や薩長は生き残る為に必死です。
もし1863年の「八月十八日の政変」からの流れが何ものかのシナリオ通りに動いていたら、坂本龍馬はシナリオのカモフラージュだったら、岩倉の恩赦無くして「王政復古の大号令」があり得ないと考えたら、様々な妄想が尽きません。
その様な点を考慮しながら読み進めていくと、また違った角度から歴史を楽しめると思います。
復活のイワクラ
1867年12月8日、二条摂政が主催した朝議で三つのことが決められました。
①長州藩主、毛利親子の官位復旧と入京許可
②岩倉ら勅勘や堂上公家の蟄居赦免と還俗
③九州にいる三条実美ら5卿の赦免
これは孝明帝崩御に伴う恩赦実施に係る議題であり、なぜか朝議が終わったのは翌日となりました。
1867年12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の9つの門を封鎖して、二条摂政などの親幕府の朝廷首脳を締め出しました。
御所門の封鎖は「八月十八日の政変」と同じ手法であり、薩摩藩あたりのお家芸だったかもしれません。
そしてつい先ほど恩赦されたばかりの岩倉が登場して「王政復古の大号令」を宣言するのです。
準備万端が過ぎます。
いつから準備していたのでしょうか?
「倒幕の密勅」のBプランが「王政復古の大号令」だったのでしょうか?
岩倉の恩赦は折込済みだったのでしょうか?
本当に興味が尽きません。
「王政復古の大号令」は「大政奉還」のアンサー的な意味合いがあります。
1867年10月の「大政奉還」後も将軍職はそのままであり、政治も今まで通り幕府が行なっていたので「王政復古の大号令」後に召集された諸侯は、新しい政体の打ち合わせ位にしか考えて無かったかもしれません。
「王政復古の大号令」の内容としては
①将軍職辞職の勅許
②京都守護職・所司代の廃止
③幕府の廃止
④摂政・関白の廃止
⑤総裁・議定・参与の三職設置
となりますが、先ほど岩倉の恩赦を決定した二条摂政を廃止して、恩赦されたばかりの岩倉を三職に任命するというウルトラCは政治クーデター以外のなにものでもありません。
ちなみに主な三職は
議定に島津茂久(薩摩)、徳川慶勝(尾張)、松平春獄(越前)、山内容堂(土佐)であり、参与には岩倉具視、西郷隆盛・大久保利道(薩摩)、後藤象二郎(土佐)
が任命されました。
妄想に近いシナリオ②(小御所会議)
1867年12月9日の18時頃から明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれました。この展開の速さには驚きです。
ここからも100%個人的な見解なので、妄想に近いフィクションだと思って読み進めてください。
岩倉は慶喜の辞官納地(罷免と領地没収)を訴えるも、慶喜を議長とする諸侯会議をイメージして参加した山内容堂は「聞いてないよー」と大反論。
更に山内は「慶喜の欠席裁判は如何なものか」とか「15歳の幼い天皇を少数の公家で丸め込んだのか」とか極めて正論的な批判をしたとかしないとか。
一方の岩倉も「天子さまは幼くない、失礼だ」と山内を叱責し、泥試合に陥りそうになったところ、高貴な公家様が「頭を冷やさんせ」と休憩することになりました。
休憩後は打って変わって反対するものが居なくなり、岩倉らの思惑通りに会議が進められ慶喜の辞官納地が決定しました。
果たして休憩中に何があったのでしょうか?
一説では西郷隆盛が「短刀一本で片付けます」みたいな物騒な事を言ってヒートダウンさせたという説もありますが、果たしてどうでしょうか?
仮に休憩中に参加者全員が墓場に持っていくレベルの「やんごとなき事」が、岩倉の口からカミングアウトされていたらどうでしょうか?
もしかしたら御所門の封鎖は、締め出しとは逆の役割も兼ねていたらどうでしょうか?
妄想は尽きませんが、かくして小御所会議は終了しました。
<続く>
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