雑文: 内科診療フローチャート 序文 裏


ホスピタリストのための内科診療フローチャート 
おかげさまで第3版出版となりました.
2016年に初版が, 2019年に第2版, そして2024年に第3版と
初版からおよそ8年が経過しました.

2016年というと, 私が2007年卒ですので, 卒後9年目で出版したことになります.

私は初期研修を洛和会音羽病院で行い, その後 飯塚病院, 洛和会丸太町病院 総合診療科で当時臨床バリバリ(今もですけど)の清田雅智先生, 植西憲達先生(現 藤田医科大学), 上田剛士先生という, 総合診療(総合内科)を志すものならば「知らなければモグリ」という伝説レベルの指導医の教えを受けて育ちました.

初期〜後期の間はあらゆる内科疾患を診療する環境でこれら指導医の可愛がりを受けながら研鑽し, その後 某T洲会病院でコモン〜専門, 超重症例までひたすらに診療し続けたのがその初版を書いた頃(〜9年目)になります.

フローチャートとの出会い

幅広い疾患を効率よく学ぶために論文を読み続けていましたが,
そのなかでお気に入りのレビューがNEJMのレビュー論文です. 
NEJMのレビューには大体綺麗な絵があり, そこに注目しがちですが, さらにフローチャートがしっかり載っているのです. そして本文の臨床パートはそのフローチャートに則って書かれています.
これがすごくわかりやすく, 読みやすい形で大のお気に入りでした.

この形式を日本語で, またもっと見やすくまとめられればいいなぁ, と思ったのがこの本を書こうとしたきっかけになりました.

出版の声かけ〜執筆開始まで

当時, 某T洲会病院の人員を集める目的で2012年から医学ブログを書いていました.
それなりの反響をいただいておりましたが, 結局人員を集める効果は全くありませんでした.
しかしながらそのブログ活動により, 医学書院様より本を書きませんか? とお誘いいただきました.

これはチャンスと思い, フローチャート形式で, 当時主流だった初期やレジデント向けからさらに進んで, 総合病院で総合内科をやっている(やらされている)先生向けに書きたい! と提案し, まず5項目ほど見本を書きました. 
当初は150項目を書くつもりで目次を作成したことを覚えています.

医学書院様はさすが大手であり, アドバイザーと呼ばれる先生が何人がおり, その先生方が「これはいける」と判断した場合に企画が通るそうです.
書いた目次(150は多いので70くらいまで減らせと言われて減らしたもの), 見本の5項目をそこに出してもらいました.

そして, その結果は・・・ ボツ でした

・・・まあ当時7-8年目の若手がこんなん書いて, はるかに上の先生方がいい気はしないのはわかっていました.
 『これは売れない, もっと初期研修医向けの本を書いてください』 と言われましたが, 当時ガンガンに尖っていた自分は「初期向けの本なんぞ俺が書く必要はないっ!」と断り, 医学書院との仕事の話はそこで終わりました.

今から思えば, なんの信頼のない若造が大層な医学書を書かせるというのは, まあ博打ですし, まともな判断であったと思います.
できれば上田剛士先生の「ジェネラリストのための内科診断リファレンス」とおそろで出したかったなぁ・・・とは今だに夢想しています.

せっかく5項目書いたので, それをそのままブログにアップし, ダメだったことを投稿すると, すぐに当時独立したてのシーニュがウチで出しますと手を挙げてくれました.
その後数社からお話はもらいましたが, 基本早い者順で採用するタイプですので, シーニュで書くことにしました.

その後は130項目に再度増やして, さらに質の担保, 「クソ生意気な若手の独りよがり」と言われないように清田先生を頼り監修になっていただき, 執筆を開始しました.

執筆中の思い出

きつかった・・・という記憶しか残っていません. なんせ130項目ありましたから, 1日に1項目書き続けても4ヶ月以上かかります. 

また, 長男がその時4-5歳, 次男が1-2歳, 妻はその時も今も現役バリバリフルタイムの外科医で, なんなら自分よりも当直は多いし だったので, それもまた大変で
毎日毎日, 帰宅後, 子供を寝かした後にPCの前に座り,
「果たして今日は上手く書けるのだろうか?」 と執筆を始める.

執筆でまず最初にやることはフローチャートを作ることでした.
ああでもない, こうでもない, 「お、これは使えるな」というふうに組み合わせ, 変更し, 作成していると, なんかパズルがハマったかのように出来上がり,

その後はそれに合わせて論文を記載してゆくと, なんだかんだ結局うまく完成している. そんな具合で書き進めました.

連日2時過ぎまで執筆し, 寝て, そして朝また仕事にいく.
いまから思うとなんでアレができたのだろうか? と本気で理解できません.
本当にどうやったんだっけ? 座りすぎて坐骨神経痛になって腰痛バンドを巻いて生活していたのは覚えています.

書き終えたあとは, もう二度ととやらない. もうやんない. としか考えていなかったです.

出版後〜

出版後で最も記憶に残っているのは, 
アマゾンで書籍ランキング 16位 を達成したことでした.
思わず保存した当時のスクリーンショットはいまだにもっています.

よくあるカテゴリー別順位ではなく, 全書籍中の順位です.
これは医学書の中では快挙なんちゃうんか!? と今だに思っていますが, まあタイミングだったのでしょうね.
でも良い思い出になりました. 今後孫にも自慢したろうかと思っています.

そして第三版も16位でした。。。たしか第二版は18位あたりじゃなかったかと記憶しています。


そして, 第2版の改訂がその3年後にありました.
3年後に出版された, ということは改訂作業はその1年前から始まっているということです. つまり出版後およそ2年弱で改訂が始まったのです. 
初版を書き終えた時は、もう二度とやんない! って思っていたのに,
1年経つと人は忘れるのですね.

この時はアドバイザーとして気心知れた専門医の先生方に協力していただき, さらに洛和会丸太町病院の上田先生にも監修に参加していただき, さらに質が強化されたものができました.

そしてなんやかんやあって, 第3版です.
これは2022年5月から取り掛かりました. 1日1項目を改訂し, 秋ごろに終了.
2023年1月〜春にかけて一次校正を行い, 同年秋〜 二次校正.
そして2024年1月〜最終校正となり, 結局2年近くかかりました. 超疲弊.

初版〜3版の間の変化

初版から8年が経過しました. 卒後年数でいえば倍になり, 診療スタイルも変わってきたと実感しています.

総合診療科, 総合内科で生涯生きてゆくのだ! と当時は思っていたのですが,
世間の荒波には勝てず, 総合診療の世界も当時自分が思っていたものとは異なる方向に進んでしまったため, 今は主にリウマチ膠原病内科をやっています.

総合内科医(総合診療科はもやは当時とは別物の領域になっているので, 総合内科と書きます)として生きてゆくのは大変です.
・病院の上層部からの支援と理解
・周りの専門医/専門科との相性
・地域のニーズ
・安定したマンパワー
このどれもが必須な要素なのです.

現在成功している全国の総合内科はこれら要素が十分に満たされており, 素晴らしいことだと思っています.
一方で人知れず崩壊, 解散してゆくところも沢山あります. むしろそちらの方が多い.
そうなると, すでに成功している所に集まるのですが, それも人員の限度があります.

そんなこんなで総合内科医としての道は諦め, その気になれば一人でもなんとかなるリウマチ膠原病内科を細々とやりながら(専門医は取得しました), 総合診療科の症例の相談を受けたりする今のポジションに収まった次第です. 

培ってきた道を棄てるということ: 転科

医学生の時から総合診療科(現総合内科)に進もうと決心し, 全ての労力をそこに費やしてきた日々でした.
・1日3論文読むこと, それを全てスライドにまとめること, 
・自分の担当症例以外にもその科に入った症例, カンファで知った症例の全てをまとめること,
・レクチャーで出てきた論文は全て読むこと

これを徹底してきたおかげで, この本を書くことができました.
原著論文をよく読んでいたので, 研修医の時は非常に効率が悪く, 不出来で苦労しましたが, 後期くらいからグングン伸びた感じでした.

総合内科医としてもそれなりのポジションにおりましたが, 環境や相性などからこれ以上は続けられる自信がないと悟り, 心機一転リウマチ膠原病内科に転科しました.
その時お世話になった/今もお世話になっているのは あの ”医ンフルエンサー” として名高い 帝京ちばの萩野昇先生です.

こうしてみるとオラ、スッゲェ先生sに囲まれてんなー、ワクワクすっぞ

総合内科医としてのそれなりのポジ → 新米出遅れ リウマチ膠原病内科の爆誕です

総合内科をバックグラウンドとして専門科にいくのは悪い選択肢ではない. ただし・・・

・手技がある科を除く
・そして, 本当に真剣に総合内科を突き詰める努力をした者に限る.

転科して実感したのは上記のようなことでした.

総合内科を本気(マジ)で突き詰め, 各内科へのバイアスなく鑑別疾患が挙げられる, 診断方法がわかる, 診療方針がわかるレベルから個別の専門科を突き詰めることで見えてくるものがあります. 

中途半端に, 例えば
「後期研修しました」(これも濃く, ガッツリとしているのならば良い)」とか,
「有名病院でスタッフとして教育もしてました」(スタッフとしてガッツリ臨床して突き詰めてました, なら良い) 程度では, 専門科に行き1年もすればすっかりその総合内科としての経験の利点は無くなる.

やるなら腰掛けではなく, 総合内科を突き詰めたのちに専門科に行ったら面白いです.

手技がある科, 手技がその科の価値として重要となる科では, 正直なところ総合内科で費やす時間が, そのまま専門科としてのロスとなり得るのでやめた方が良いでしょう.

そういう意味で膠原病内科は総合内科から移行する科として相性が良いように思います.
他は感染症内科とか, 血液内科(移植を除く), 腫瘍内科なんてのも相性がよいかもしれない. 

どういいのか?

実感として, 総合内科時代の知識や技能は明らかに膠原病診療の中で役に立っているし, 他の最初から専門分野を突き詰めている先生にはない利点を持っていると思っているのであるが, それを言語化する国語力がまだ私にはない. 
うまく描けるようになったら随時追加したい.

一つは, 専門科バイアスが明らかに薄いという点.
 これはすでに専門科バイアスを持っている先生方にはうまく説明ができない. 一緒に働いたら多分わかると思う.

転科による不利益

総合内科から専門科にうつることの不利益についても語るべきであろう.
不利益・・・それは,
専門科としてはペーペーであり,
総合内科/総合診療科としてはもう偉そうにできない,
ということだ.

たとえば, 総合診療科に対する講演を依頼されたとしよう.
その内容を
・専門科として語る権利(能力)はなく, 
・総合診療科として偉そうに語ることもできなくなる.

誠実に生きるならば, 転科した時点で元々の分野ではもう第一線ではないのだから, 素直に断るべきである.

そういってしまうと, この内科診療フローチャートも, すでにホスピタリストではないし, 総合内科でもない自分が書くのは間違っていると言える.
(その点で今後の改訂は正直考えていない… 自分自身が, そして周囲が許してくれるならば書くかもしれないが, それは難しいように思う.

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