記録として:それは、相手の敷地内で起きていること。
※「相手の敷地内」という見方や、今回のnoteの内容は、書籍『対人関係療法でなおす うつ病 病気の理解から対処法、ケアのポイントまで』(水島広子著)を通して学んだことを、織り交ぜながら書きました。私自身、何度も何度もこの考えを反芻・確認、noteに書いてしてしまう部分です。散文です。
適応障害、そしてコミュ症と診断される前後の数年で、特に悩んでいた/るだろうことを、「涙」を除いて、大きく2つに整理しました。
そして、その2つの共通点は、「相手の敷地内※で起きている(≒あおまるはコントロールできないこと)」でした。
職場内における、他者間(全員先輩職員)で発生する悪口・陰口を、頻繁に聞き、とても悲しい気持ちになっていたこと。
「相手はどう思うか」「他者はどう感じるか」等と問われ続け、「相手に悪い印象を持たれるよりも良い印象を持たれた方が良いよね?」と同意を求められ、相手・他者が少しでも、あおまる自身が”何も考えていない印象”等、あおまるに対して悪い印象を持つことは最悪なことだと、”思わされ/思い込み”、相手・他者からネガティブな評価や批判、助言をもらうたびに、とても辛い気持ちになっていたこと。
1の問題については、私には、悪口・陰口のように聞こえても、他者にとっては、ただの気楽な”たわいもない話”という位置づけである等、そもそもの前提に違いがあるのかもしれません。
例えば「私は悪口・陰口を”聞かされていた”」と感じても、他者にとっては、「あおまるが、勝手に、私たちのたわいもない話を”聞いていた”」と感じるのかもしれないし、まったく何も気にしていないのかもしれません。
また、例えば「私にとっては、〇〇さんの悪口のように聞こえており、聞いていて悲しい気持ちになります。私が居る場では、その話はしないようにお願いします。」等と、他者に伝えた場合、悪口・陰口が耳に入る機会は減る可能性があるものの、それが”完全に”0になる可能性は低いと思います。
何をどのように考え・感じ、どのような基準で判断し、それをどうするのか(誰かに話すのか、胸に秘めるのか等)等は、個人に委ねられることです。
2の問題も同様です。他者があおまる自身をどう見るか・考えるか、良い印象を持つか・悪い印象を持つか、それが変わるのか・変わらないのか等、結局のところ、他者に”完全に”委ねられています。
例えば、私が、「〇〇さんに良い印象を持たれたい!」と思い、自分なりに相手のことを考え、どんなにベストを尽くしたとしても、〇〇さんには良く思われず、また「努力、足りないんじゃない?」と言われることは、有り得ます(ありました)。
自分ー他者間で一致しないことがあるように、例えば、同じ事柄に対し、Aさんからは☆と助言を、Bさんからは◇と助言をがあり、Cさんからは♡と助言を等というように、他者ー他者間で一致しないこともあると思います。
これらの問題を、この先、悩み続けても、私が自ら、解決することは、明らかに無理です。≒あおまるのコントロール外のこと。
私は、他者の中で起こる様々な”反応”を、他者の自由を、コントロールすることができません。
また、例えば「私は、他者のことを自分なりに考え、ベストを尽くしたが、他者は怒り心頭した」ということがあった場合、私は、他者の敷地内での問題(怒り心頭した)を、私自身の敷地内での問題(私が怒らせた≒自責)として、受け止める必要性は低いでしょう。
同様に、他者も、私の中で起こる様々な”反応”を、私の自由を、コントロールすることができません。
そして、他者も、私の敷地内での問題を、他者自身の敷地内での問題として、受け止める必要性も低いでしょう。
私が、他者とお互いに出来ることは、それぞれの人の限界を認めながら、各自、自分自身の敷地内で、喜んだり、悲しんだり、悩み・考えながら、できるだけのことを、できる範囲でする/していく、ということ。
そして、お互いに、自分自身の敷地内で、ベストを尽くしていること/尽くそうとしていることに、気づき続けること。
ここを、私自身の中で、2つの大きな悩みの着地点にしようと思います。
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