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南ユダ王国の滅亡(8/9)

あらすじ
 アリスはミカエルの前から姿を消す。ダニエルへのネブカドネザル王の信任は厚くなるが、ミカエルは王に謁見し、王が正常ではないと知る。ルーシーが傷つけられる。ミカエルは途方にくれる。王都バビロンへ向かう。アリスと再会する。ふたたび、アリスはダニエルと戦う。アリスは深手を負う。ルーシーが最後の力をふりしぼってミカエルらをタイムスリップさせる。

    23 永遠のさすらいびと

 もらい受けたアククゥツにまたがり、リブラの町を守る城壁の外へ向かう。ルーシーは息をきらしながら走ってついてくる。ちょっとかわいそうになる。いつものように背負うつもりでいたが、同行するヤディが承知しない。貴重な馬を、犬の毛で汚すなと言うのだ。

前後する2頭の馬が、門にさしかかったときだった。

 ハカシャが足をひきずりながら駈けてきた。

「シャムライたちが、シャムライたちが、殺される!」

 ヤディとわたしは同時に馬からおりた。

「陛下はダニエルの力を削ごうとされているのか……」

 ヤディはなぜか落胆したようだった。

「彼らを助けてください」ハカシャは必死の形相で訴えた。

「デイオケスさまのやまいの治療が先だ」ヤディは拒んだ。

 ハカシャは叫ぶ。「ぼくにはどうすることもできない!」

「占星術師の女はどこにいる!」わたしは思わず訊いた。

「魔女はダニエルさまを害するだけじゃない。シャムライに取りつこうとしている」とハカシャは言った。

 ヤディは首を横にし、

「何者かが、魔女をつかって王をたぶらかしていると、この地に住むアラム人の商人や地元民のヒビ人に吹聴しているという噂を聞いた。北王国が滅んだのちに移住したイスラエル人までがそれを信じているらしい」

「何者かって――だれが?」

 ヤディの返事を聞く前に、ルーシーが駈け出した。後を追って走る。門前には物売りがいて地元民で混雑している。人波をかきわけ、広場に向かう。広場には罵声が飛びかっていた。シャムライらは鉄の鎖で拘束され、兵士に引き立てられようとしていた。

 ユダの民の女性と同じ縞模様の肩かけと地味な色合の衣を身につけた秦野は兵士とシャムライらの間に割って入り、行く手を阻んでいる。頭にかぶるベールをはぎ取られたのか、 ひときわ目立つ容姿をさらし周囲の野次馬を睨んでいる。

 ティイワやキタバやハレは恐怖で凍りついているように見える。3人は殴られたのだろう、顔がはれあがり、歩くこともままならない様子だった。

「なぜ、おれたちを捕らえるのだ! 何をしたというのだ!」

 無傷のシャムライ1人が抗議していた。

 宿屋で待っているはずの子猫が、秦野の肩に乗ってニャアニャア鳴いている。悲鳴にしか聞こえない。

「殺せ!」という声が1つに合わさって聞こえる。

「こいつらのせいで、わしらはあぶない目に遇っている」

 群衆は、秦野とシャムライらに向かって、いまにも襲いかかろうとしている。その中には、リブラに住むユダの民もいて、「魔女と裏切り者は地獄に堕ちろ!」と叫んでいる。

 秦野のことはともかく、同族がシャムライらを嫌う理由がわからない。

【ネブカドネザル王に取り立てられたことで、嫉みをかったのです。サバン・秦野がシャムライに始終、話しかけることも余計な憶測を生んだのです】

「秦野はなんで力をつかわへんの! 記憶を書き替えたり、電磁波シールドを身のまわりに――」 

 わたしの問いかけに、ルーシーは使えないのだと答えた。

【シャムライに好かれるために、自ら力を封じたのです】

 彼女らしくないとルーシーはつぶやき、頭を無限大の形に振ったが効き目はなかった。目の前の光景は静止しないどころか、人びとは石を投げはじめた。

【強大な力をもつ者のせいで、パワーが発揮できない……】

 尻尾をたらしたルーシーは消え入りそうな声で言った。

「アンタまでどないしたんよっ」

 わたしは、相克を表わす五芒星の元素を唱え、印を結んだがやはり、なんの効き目もなかった。ルーシーの言う通り、強大な力をもつ者が邪魔しているのか、さいど試みるが、だめだった。

 どうすればいい!

 群集心理というのだろう、リブラの住民は歓声をあげて石を投げつづける。しかし、内心では秦野の不思議な力を怖れ、致命傷になるような一撃を投げる者はいない。バビロニアの兵士の一群はわざと放置し、騒ぎたてる群衆を制止しない。たのしんでいる気配さえ見える。

「おまえは、おれたちに関わるな!」シャムライは秦野にむかって言った。

 どこからともなく現われたターバンで顔をおおった男が、長剣を手に秦野に近づき、剣を振り上げた。ルーシーは牙をむき出し唸り声をあげて駆け出した。一瞬の出来事だった。ルーシーは狂ったように男のふくらはぎに噛みついた。男は振りむきざまに剣の柄をルーシーの頭に振りおろし、脇腹を蹴り飛ばした。ルーシーは地面に叩きつけられた。ひと声鳴き、起き上がろうとして口から血を吐き、倒れた。

 わたしは人垣を押しのけようとしたが、跳ねかえされた。からだ中から怒りが噴き出した。

「ルーシー!」

 大声で呼んでも、ルーシーは身じろぎひとつしない。

 秦野の肩から振り落とされた黒猫は、鳴きつづけている。

 わたしは、あとを追ってきたヤディの弓矢をとっさに奪い取り、彼の肩ごしに矢を放った。1度も手にしたことがない武器なのに、ためらいなく射た。矢は、長剣をかざした男の肩を射た。どよめきが沸き起こった。

 ヤディもだが、周囲にいた群衆はわたしのそばを離れた。

 長剣の男が振りむいた。

 目が合った。

「バカヤロウ!」シャムライが怒鳴った。「アリオクは魔女を殺して、おれたちを助けようとしてくれたのに、なんてことをしたんだよっ」

 数人の兵士に取り囲まれた。身を守るために次の矢をつがえようにも、ヤディは雲隠れしていない。身を守るものはない。ルーシーがいなければ、わたしは何もできない。

 ただのコボテンなのだ。

 その場に膝を折った。兵士らの足の間から横倒しのルーシーが見える。頭をもたげようとしたルーシーを兵士が蹴飛ばした。ルーシーは、キューンと鳴き、動かなくなった。

「犬の肉はまずいぞ」と別の兵士が言った。

「金冠頭の魔物を捕らえたら賞金が出るらしい。宦官長の命令だ。ダニエルの弟子もろとも連行しようぜ」

【……魔よけの呪符を……】

 耳元でルーシーのささやきが聞こえた。

「ルーシー!!!」

 胸の奥から雄叫びが沸き出た。ルーシーといっしょなら恐いものはない。立ち上がり、人指し指で五角型を素早く描きながら、「木は土に剋ち、水は土に剋ち、水は火に剋ち、火は金に剋ち、金は木に剋つ」と発した。手を組み、消えろと念じた。

 やはり、何も起こらない。

「敵がだれなのかもわからないあんたなんかに呪術ができっこないわ。だって、ニセモノのみ使いなんだもの」秦野の罵りが耳朶をうった。

「犬が死ぬのはあんたのせいよ! いい気味だわ」

 意識を5つの元素の働きに集中し、同じ動作をくりかえした。

 昼よりも明るく、夜よりも暗い何かが胸奥に宿った。

 つむじ風が巻きおこり、砂塵の渦が兵士らと群衆を飲みこんだ。

 土煙が舞う。アリオクは群衆にまぎれて姿を消した。

 秦野とシャムライは茫然と立ち尽くしている。少年らは頭を抱えてうずくまっている。

 わたしはルーシーのそばに駆け寄り、おおいかぶさった。

 シャムライは仲間の少年に、「逃げろ!」とくりかえし言った。

 兵士の一団が体勢を立て直し、襲ってきた。

 夢を見ている最中に目覚めるときがある。夢はたちまち消える。そのときのように目の前にいる兵士らを意識の中から削除した。たちまち彼らは消滅した。同時に、シャムライらを拘束していた鉄の鎖が切れた。

 シャムライはティイワらを励まし、それぞれの背中を押し逃亡を促した。

 ハカシャがいない!

 秦野はシャムライの背に、「わたしもいっしょに連れて行って!」と懇願した。

シャムライは一片のためらいもなく、「おまえのせいでわれわれは囚われたのだ」

 失せろと吐きすて、彼は仲間とともに立ち去った。

 秦野は焦点の合わない目でつかのま立ちつくしていたが、わたしを振りかえり、

「あんたはママといっしょよ。ミタマのことなんてどうでもいいのよ。2度と会わない」

 彼女は身をひるがえし、シャムライらの消えた街路にむかって走り出した。出会ったときと同じ,漆黒の長い髪をうしろへなびかせながら。

あとには子猫と命の火の消えかかったルーシーが残された。

「なんで、噛みついたりすんのよ……あんたは相手がアリオクやって知ってたんやろ……ルーシーのアホ、アホ……なんでよ……なんのために……秦野のこと嫌ってたやないの……」

 子猫がわたしの腕にすがりつき、肩に駈けあがると、ちいさな頭をわたしのあごにすりよせて、したたり落ちる涙を舐めた。

 渦巻く風の中から灰色のマントをまとい、フードを目深にかぶった男が現われた。

薄いくちびるの両端が吊り上がり、「ようやく清明の魔除けの呪符を会得したようだな。しかし、時間に捉われないわたしには、通用しない」

 複製人間の声と似ていた。長身の男は死神に見えた。ルシファーの娘、ルーシーを迎えにきたのだろうか。頭の中でこの状態を回避する方法を必死で考えた。過去に同じ体験をした記憶が頭の隅にある。そのことがかえって、わたしを怯えさせた。

 男は骨張った指でわたしを指差し、言った。

「わたしがおまえをここへいざなったのだ」と。

「なんのために……」

 男は、ヨアキムと名乗り、

「ネブカドネザル王に天の運航を正しく告知する占星術師のナイードの一族は、わたしの意のままになる」

 とつけ足した。

 わたしはルーシーの頭をひざに抱いて号泣した。何もかもどうでもよかった。

「犬は使命を果たそうとしたのだ」と、男は言った。

 胸をえぐられる。

「女を殺すのはアリオクではない。おまえだ。おまえが女を殺らなければ、ダニエルはバビロニアの宮廷で上席権が与えられられない」

「なぜ……」

「王はいまなお、ダニエルと魔術を使う女のどちらを身近におくべきか迷っている」

 ルーシーの口から紫色の舌がはみ出た。

「ダニエルはわたしの庇護のもと、いずれバビロニアを滅ぼし、ペルシアを牛耳る権力を手にし、高位の者だけに許される紫の衣をまとう」

「黙れっ」

「通貨を流通させる者がその国を牛耳る。王がいくさをはじめるとき、だれにもっとも頼ると思う? 戦費を調達する両替商と武器商人だ。敵方の高官も将兵も黄金のためなら、どんな悪事もはたらく。自国さえ売る」

「黙れっ」

 男は頭を左右にふり、

「ダニエルを連れ去ろうとした4人の若者は処刑される。覚えておけ。運命を変えようとする者はかならず罰っせられ、排除される。天空を支配する、全能の存在である神の定めた運命から逃れられる者はいない。だれ1人としてな。神に逆らったみ使いのルシファーでさえ、おのれの運命を受け入れている。ルシファーの娘も」

「おまえは何者だ!」

 男の忍び笑いが人気のない広場に濃い影をおとした。

「地上に規律をもたらし、最高の裁き主である神を崇め、守護する者、神の守護天使だ」

 男の尖った鼻の先がわずかに見える。男の背筋はのび、存在そのものが何者も寄せつけない威厳に満ちていた。

「なんのために……苦しめる……ルーシーやわたしを……」

「その犬は、〝死の陰の谷を行くときも災いを恐れない〟哀れな者に生まれついた永遠のさいらいびとなのだ」

 何者かに、胸の奥をぎゅっとわしづかみにされ、すり潰されたような衝撃が走った。

「アンタこそが天使長のミカエルなのか!」

 男は笑い声を立てた。

「おまえは大勢いる反キリスト者の中のひとり。世にいれられぬ者。神の恩寵に触れられぬ者だ」

「わたしがサタンということか!」

「サタンならあつかいやすい。おまえのように手間がかからない。しかし、おまえがどれほど抗っても、神の創造されたこの世界はすでに年老い、力を失ってしまった。もうどうにもならない」

 ヨアキムはそう言うと、指を鳴らした。すると死んだはずのルーシーがよろよろと起き上がった。

「忘れるな」

 ヨアキムの姿は一瞬で消えが、声と悪臭が残った。

「サタンと反キリスト者は同時に存在できない」

 ルーシーの力のない声が聞こえた。

【さぁ、行きましょう。デイオケスのもとへ】

「蹴られたお腹が……」

【限られた時間を有効に使いたいのです】

 ルーシーの背に子猫が乗った。

【時計を見てください】

「2時36分6秒、1時間経ったことになるのん?」

【いえ、13時間経過したのです。さっきの男が時を早めたのです】

 ルーシーは咳こむと、あごを上向けた。遠吠えをすると、アククゥツが駈けてきた。

「秦野をほっていかれへん!」

【永遠に平安の訪れない彼女の身を、案じることはありません】

「自殺した秦野は、死なへんゆーことなん?」

【彼女の意志なのです。近い日にいやでも、すべてを悟る日がくるでしょう。そのとき、あなたがわたしの友人でいてくれるかどうか……】

「アンタが死んだかもしれんと思っただけで、心臓がどうにかなるほど苦しかったで」

【あなたがわたしと結んだ契約を悔やんで嫌気がさし、わたしを置き去りにしたとしても、わたしはあなたを恨みません。その場所で迎えにきてくれる日を永遠に待ちます】

「もしも離ればなれになっても、ゼッタイ見つけだす」

 ルーシーはのど飴を1つほしいと言った。2つ出すと、黒い瞳がうるみ、目ヤニといっしょに涙がひと粒ぽろりと落ちた。蹴られたときの衝撃なのだろう、鼻血がひと筋たれている。ターバンの頭を抱きしめた。

「もっぺん、同じことが起きたら、アリオクを殺す。アンタをひどいめにあわすヤツは許せん」

【あなたは翼のない天使長です】

「翼はあるで。アンタがマジックで羽を書いてくれたやん」

【そうでした、そうでした。あなたとわたしは2人で1人です】

 黒猫がアタシの頭の上に飛び乗った。金冠頭のイガイガの毛がへしゃげて、押しピンの先みたいな爪が、頭の皮に突き刺さる。

 ボン・ジョビの「We weren’t born to follow」が断続的に流れる。

【ジゴロ猫は彼女に見捨てられて、あなたに乗り換える気ですよ。Danger・Signalです。血祭りにあげましょうか】

 いつものルーシーにもどってくれたのかとほっとした。

ルーシーはよろよろ歩くと、中腰になり、血便をたれ流した。

 代われるものなら代わってやりたい。

 ヤディがもどってきた。すまないとも大事なかったかとも言わない。短い間にしろ、シャムライと親しんだだろうに、彼の安否もたずねない。

「おまえなら、わが主人を助けられる。もはや余命いくばくもない」

 もしかするとデイオケスを生かすことが、ダニエルの人生を狂わすことになるかもしれない。王の夢を説き明かすように計らう役目の護衛長のアリオクをこの手で傷つけたのだから、運命は変わるはずだ。

「宿屋へもどり、荷物をもっていきたい。デイオケスの手当てに必要だから」

「わかった。その間に荷車を用意する」

 ドラを肩に乗せ、歩けないルーシーをかかえて宿屋に帰った。

 デイオケスの手当てをする気などなかった。敷物にルーシーを横たえた。どんな治療をすればいいのか、わからない。

【わが友よ。心配にはおよびません。まだ為すべきことが終わっていません】

ルーシーは目を閉じたまま言った。

【いまは死にたくても死ねないのです】

「デイオケスを生かすことが、反キリスト者のアタシの目的なんか?」

 ルーシーは目を閉じると、うなずいた。

 ルーシーの汚れたお尻を拭いた。

 ヤディが迎えにきた。犬は捨てろと言う。

「2度と命令するなっ」と怒鳴った。

   24 乾期のはじまり

 周囲を砂漠に囲まれたリブラの城壁の1歩そとへ出ると、黄砂が舞い、視界不良になった。

【けっして楽な道ではありませんが……リブラはダマスカスへの迂回路となるために大軍団に利用されるのです……】

 ルーシーを抱いて荷車に乗ると、ヤディがアククゥツにまたがり、荷車を引いてくれた。ドラはわたしにもたれかかり、おとなしくしている。

 砂漠の舟であるラクダの歩む隊商路をどのくらい移動しただろう。

 アククゥツはまつげを砂埃まみれにしてわたしたちを運んでくれた。ルーシーは時々、いやな咳をした。そのつど、ドラが心配そうに鳴いた。子猫は体温が高いので、ドラを山羊の皮袋に入れてルーシーのそばにおいた。

 ルーシーはハァハァと息をする。ルーシーに出会うまで、生きものの体温が嫌いだった。いまのわたしはルーシーとドラの温もりをこよなく愛している。

 ヤディが前をむいたまま、「おまえにとって、その犬は、おれにとってのデイオケスさまなんだな。デイオケスさまはおれの氏素性を1度もたずねなかった。食い物も同じものを分けてくれた。おれの父親は騎馬隊の隊長だったが、いくさのないときは馬番だった。食い物も充分になかった」

 砂漠に陽炎が揺れている。

 ルーシーはささやく。【ソロモン王の敷いた〝王の大路〟は巡礼の道とも呼ばれ、北はユーフラテス川から南はエジプトまで達していました】

 説明なんてしなくていいと言っても、

【〝王の大路〟とわかるように道しるべがあり、人々は年に3度、その道を通ってエルサレムの神殿に詣でたのです。北のダンから南のベエル・シェバまでと人びとは言っていましたが……北王国の都サマリアが滅んだのちは、ダン族とゼブルン族はフェニキアのシドン人の支配下にありました。ユダ王国の南部の都市に散り散りに居住していたシメオン族はエドム人のもとで暮らすようになり、ガド族はモアブ人と同化しました……サマリアに属していた10部族はアッシリアの捕虜にならなかった者たちも苦渋をなめたのです】

「聞いても覚えられへんで。日本の都道府県名さえよーわからんのに。もうしゃべらんとき。しんどいやろ?」

【近い未来にソロモン王の建てた第一神殿は焼き払われます。エドム人のヘロデ王が再建した第二神殿も焼失します。神は子々孫々、何代にもわたって選ばれし民を罰するのです。聖櫃さえ残っていれば……何もかも違っていたかもしれません】

 ヤディが振りむいた。

「おまえはいつも犬と話しているが、そんなことが本当にできるのか? できるのだろうな。矢も射たし、竜巻を起こしたものなぁ。おれはミタマと名乗る女の魔術を怖れていたが、額に青いあざのあるおまえのほうがいまでは、よほどおそろしい」

 乾期がはじまったせいで、隊商路の両脇に広がる荒涼した砂漠は果てしないように感じられた。夕闇が、天から落ちてくるようだった。

 砂漠に張られた天幕に着くと、「総司令官に任命されたのに、流行りやまいだと噂が流れたとたん、こんな場所に隔離された」

 アシュペナズの企みだとヤディは口惜しそうに言った。

 味方のメディア軍からも見限られたのか、1人の護衛兵もいない。中に入ると、敷物に横たわるデイオケスは意識がない状態だった。額が燃えるように熱い。呼吸は早く、浅かった。医学の知識が皆無の者でも彼の症状が思わしくないことは知れた。

 ヤディはデイオケスの枕元にうずくまり、しずかに泣いた。

「助力しなかったことを許してほしい。あの場で、死ぬわけにはいかなかった。言い訳になるが、デイオケスさまは兄弟にひとしい。かけがえのない唯一の兄なのだ」

 外気の温度がどんどん下がっていく。浅い息をするルーシーの指し図通りに治療した。湯をわかし、薬湯をつくり、デイオケスに蜂蜜といっしょに飲ませた。ヤディの手を借りて着替えさせると、荒野にあかね色がさし、夜明けを告げていた。

 三日三晩、同じことを繰り返した。ルーシーはその間、必要なこと意外は話さなかった。デイオケスもルーシーも体重が減っていくのが、外見を視るだけでわかった。ヤディがベトウィンから山羊の乳を買ってきたおかげで、ルーシーに飲ませることができたが、浮き上がったあばら骨をもとにもどすことはできなかった。

 デイオケスの熱は少しずつ下がったが彼の首が細くなり、眼窩の凹みが目立つようになった。

ルーシーも同じだった。

 こっそり桔梗紋印の呪符を唱えた。効き目があるのどうか、自信はなかったが、他に自分のできることが見つからなかった。

 4日目の朝、デイオケスの顔に血の気がさした。意識はもどらないが、峠は越したようだ。

「感謝する」とヤディは言った。「デイオケスさまが目覚める前に、おまえに渡したいものがある。わが家に代々つたわる弓がある」

「矢を射たときの弓なら捨ててきた。大事なものだったのか?」

「あれは敵を射るときに使う弓矢だ。闘いの場で使うので、使い捨てになることがしばしばある。気にしなくてもいい」

 ヤディはそう言うと、常に所持している矢筒を背から下ろし、くくりつけていた小ぶりの弓を差し出した。持ち手は木の枝で、弦は獣の皮でできていた。

「子どもころ遊んだ石弓だ。これで矢を射たことはない」

 ヤディは玩具のような矢を矢筒から取り出した。

「これを飛ばすのか……」

「この世には聖なる矢と邪悪な石があるそうだ。聖なる矢は世界を新たにし、邪悪な石は世界を壊すと父から教わった」

「聖なる矢、セイヤ……蛙のことじやないのか……」

 秦野が書いた龍の絵文字の紙で占ったとき、『セイヤコワレル』と石は動いた。自分がどうにかなることだと、今の今まで思っていたが、もしかすると違っているのかもしれない。ヤディの父親の話だと、聖なる矢を放つと、世界が新たになり、石を放つと世界は壊れるという。しかし、秦野から盗んだ石で占うと、聖なる矢が世界を壊すと暗示した……。

どちらが正しいのか?

【世界が新たになるには、平衡地点であるパレスチナを中心にして壮大な破壊がなければなりません。それを行なえるのは全知全能のお方しかありません】とルーシーは咳こみながら言った。

「頼むから安静にしててよ」

 ルーシーはグゥワンと小さく鳴いた。子猫はうれしげに飛びはねた。

 その日のうちに、ヤディに付き添ってもらい、砂と石ころの道から城壁の見えるところまでもどった。

 頭上にハゲタカが何羽も舞っていた。

 近づくと、死体をついばむハイエナの群れと遭遇した。城門のすぐそばなのに、黄金色に稔った大麦を背負った農夫の中で足を止める者はいない。死骸は斬首されたシャムライらの胴体だった。棒切れの先に串刺しにされた頭部は地面に突き立てられ、野ざらしにされていた。眼球はカラスについばまれて、なくなっていた。だれがだれなのか判別できないほど、顔面は腐っていた。

【見てはなりません】とルーシーは言った。【嘆いても何も変わりません。これまでもこれからも人間は殺し合う生きものなのです。その一方で、だれかのために自らの命を捧げることも怖れない人間もいる】

 この世界にきた日に見かけた女の人が、裸足で目の前を通り過ぎていく。彼女は手に何かもち、子どもが、子どもが……とつぶやき、ひたすらさまよっている。彼女も……永遠のさすらいびとなのか……。

「ルーシーは言ったよな。あの人は次元の異なる世界にいるって。あの人に、アタシらは、ほんまに見えてないの?」

 ルーシーは何も答えなかった。それは肯定したことになる。彼女は江見直美なのか? だれもいない世界で、失った子ども、わたしや秦野を待っているのではないのか……。

  25 果てしない旅

 リブラの町は、シャムライらの処刑後を境に、賑わいは以前と変わらなかったが、人びとの表情に一抹の不安がよぎるようになった。王や宦官長の喚気をこうむれば、1度は許された身であっても命がないと民に知らしめたからである。

 秦野は行方しれずのままだった。

 アククゥツは、畜舎に預けた。

 ルーシーは羊のミルクにしたしたパンをほんの少し、口にするとき以外は眠っていた。赤毛のつやはなくなり、日毎に赤茶けていく――。

 薬草を煎じて飲ませることの他に、何も思いつかない。

 無為のうちに日は過ぎていった。

 ここへ来て24日間、経てば、もとの時代にもどれるのではないかという淡い期待を抱いていた。

 期待は夢でしかなかった。

 占星術師のナイードは8ヵ月間、金星と月の位置がよくないので進軍すべきでないと王に告知した。秦野はナイードとは真逆の予言をネブカドネザル王に告げた。

 王はリブラにとどまり、エルサレムへ向け進軍しなかった。

 聖都を囲んだアッシリアの大軍が、ひと夜で滅んだというユダの民の伝承を気にかけているのだろうか。

 ダニエルを近づけるべきではないという秦野の諌言をしりぞけ、ダニエルを厚遇したのは災禍を避けるためだったとしか思えない。

 日々、悶々とするわたしに、ある日、突然、

【年齢の近い皇太子はダニエルさまを気に入り、食卓をともにすることを望んだのです】

 ルーシーはターバン頭をわずかにあげて言った。白いタオルでつくったターバンは、いまでは鼠色に変色していたが、ルーシーは外させなかった。

「ダニエル書(=ダニエル記)にそんな記述はないで」

 ブラシのかわりに2本の手の爪で、ルーシーの毛並みを整える。

 気持ちがよいのか、ルーシーは大きく息を吐くと、

【皇太子は父王について学ぶより、皇太子の身を案じる後宮の女たちに養育されました。女性の中で成人に達するまで暮らす慣例はアッシリアの時代にはじまり、あとを引き継いだバビロニアも父王が早生したネブカドネザル王をのぞいて、ペルシアが覇権を握ったのちもつづきます。ギリシア人はペルシアの貴族を女のようだと嘲りました】

 ルーシーはつづけて言った。天才的な戦略家であったネブカドネザル王は自身の壮大な野望を叶えるために、メソポタタニア一帯とパレスチナ、フェニキア全土の掌握を生涯の目的としたが、バビロニアの宮廷では後宮を牛耳る宦官と後宮の女たちがまつりごとに介入した。5人いる大臣のうちの国防を担う者はこれを憂いて、宦官の勢力を削ごうとつとめたが、男性の性器を切除した宦官の複雑な感情は宮中で暗躍するのに適していた。

【宦官長の策謀で、ダニエルに従うシャムライらは反逆罪に問われ、杭にかけられたのです。アリオクは宦官長の手先だったのでしょう】

「宿屋のおばちゃんが言うてたけど、ダニエルと対抗する者として、秦野を召し抱えたそうやで。どおりで、見かけへんわけや」

 宿賃はだれが払ってくれているか、女主人はけっして言わないけれど、薬草や食べ物まで運んできてくれた。

【絶大な権力をもつ王の心中は常に揺らいでいます。生かすも殺すも王の一存でどちらにでもころがります】

「たのむから、はよ、元気になってな」

 ひと月ぶりに、ヤディが訪ねてきた。

 なんの用かとこちらが訊く前に、「王命だ」と言う。

「命令される覚えはない」

「おまえたちが、命を永らえられたのは、陛下のご温情あってのこと。王命にそむけば、犬もろとも処刑される」

 わたしとルーシーとドラは王の許しを得て、やまいの癒えたとはいえ、もとの状態ではないデイオケスの率いるメディア軍とともに行軍しなければならないと、ヤディは言う。

「なんでやねん……どこへ行っても自由はないんや」

 翌朝、ヤディは、ひづめを補強したアククゥツの引く荷車を、運んできた。

 どこへ行くのかたずねても、ヤディは答えない。

 数日前から、町の内外にいる兵士の様子があわただしくなっていた。城壁の外で天幕を張り、駐屯している多くの兵士は捕虜を移動させる準備にかかっていることは、宿にいても気づいた。

【エルサレムを陥落させたシデオン将軍の部隊と、ダマスカスで合流するのでしょう】

 行き先はバビロンのようだ。

「行軍するような天気やないのになぁ」

 日中の暑さは、金冠頭が溶けるのではないかと心配になるほどだが、アララト山(現トルコ領)を源流とする、ユーフラテス川の支流は枯れることはないとルーシーは言う。

 ネブカドネザル王麾下の1個師団を越える兵士が、千人を越える捕虜を引き連れ移動を開始した。

 最後尾を行く、メディア人で編成された部隊の先頭を行くデイオケスのすぐうしろにいる護衛部隊とともにアククゥツは進んだ。

 捕虜のエホヤキン王やダニエルが長い隊列のどこにいるか、知るすべがなかった。

「この先、どうなるん? 気持ちがどんどん滅入ってくわ。アンタは相変わらず具合が悪そうやし」

【まだだいじょうぶです……あとすこし】

 バビロニア軍の隊列はダマスカスへむかう隊商路の端から端にまで達しているかのようにつらなっていた。バビロニアの正規軍の後塵をはいするメディア軍に従うアククゥツの引く荷車に乗っているわたしとルーシーとドラは、砂塵の舞い上がる道を行くことになる。ターバンで顔をおおっても、土壁を塗ったような顔色になった。

黒猫は白猫に、ルーシーは灰色の犬に。二匹ともまつげまで白くなった。

「バビロンの観光は、アンタが空から見せてくれたから、ここらでもうええで。ダマスカスで逃げへんか。『千夜一夜物語』に出てくる、空飛ぶ絨毯とか、出されへんの?」

 ルーシーは基本的に人の話に耳を貸さない。

【ネブカドネザル王は来たるべきティルスとの戦役に備えて、兵士と兵糧の補充のためモアブとアンモンを攻めます】

「なんで、エルサレムを攻める前にやらなかったんよ」

【いくさをはじめる前に、ネブカドネザル王は、腸卜僧に占わせています。王は、アンモンとエルサレムのどちらを先に攻めるべきか迷ったのです】

「ユダヤ人の神サンがよっぽど恐いねんなぁ」

【塩の海(死海)に面したアンモンはかつてイスラエル王国の領地でした。ギレアデ(ヨルダン川の東)と呼ばれた地です】

「なんで、ダマスカスにむかってるのん?」

【交易路が四方にのびるダマスカスは、陸の交易をになうアラム人の建てた国です。彼らはいまのところバビロニアに恭順の意をあらわしていますが1度は、反アッシリア同盟の旗頭となった国です。

〝砂漠の宝石〟と謳われるダマスカスはユーフラテス川の東に位置する国々にとって、フェニキアやパレスチナやエジプトに至るには避けて通れない都市国家です。バビロニアの派遣した守備隊に通行税を奪われても、交易によって商人は富んでいます。いつバビロニアに反旗を翻すかわからないと、王は案じているのです】

「アラム人は優秀やねんな」

【セム語族のアラム人の先祖はアモリ人です。そのアモリ人の建てた国がアンモンです。現在はヨルダン領ですが】

「バビロニアにもアラム人が仰山いてるんやろ?」

【アラム語が当時の外交上の国際語になったほどですからね。アラム人の活躍のほどがしれます。ティルスの住人も多くはアラム人です。現在のレバノンからは想像できませんが、フェニキアと呼ばれていた時代、交易において、他国の追随を許しませんでした。近い将来、アラム人にとってかわるのがユダヤ人です】

 前方から早駈けの馬がやってきた。王直属の伝令官だという。伝令官は下馬し、メディア軍を率いるデイオケスの前にひざまずくと、言上した。ダマスカスに到着後に、徴募する兵士とともにアンモンとモアブの両国を平定し、戦費となる物資を徴用せよという内容だった。

 下馬したデイオケスは、「アンモンはともかく、モアブの荒廃した大地から得られるものがあるのだろうか」とつぶやいた。

伝令官は顔を上げ、「陛下のご下命です」と大声で返した。

 伝令官が去ったあと、常にデイオケスのそばにいるヤディが口をひらいた。

「マナセとガドとルベンの3部族の領地であったギレアデは、北王国が滅びたのちにダマスカスやアンモンやモアブの各部族によって徹底的に掠奪されました。捕虜となった者たちはエドム(イスラエル南端)やガザ(パレスチナ)やツロへ売り飛ばされたのです」

「アッシリアに滅ぼされたのではないのか?」

 意外な表情のデイオケスが、ヤディにたずねると、

「もともとアンモン人やモアブ人の土地だったのですが、ダビデ王によってイスラエルの領土になったのですが、ソロモン王の時代の後期には支配力は弱まっていました」

ヤディは恨みを込めた声で答えた。

「圧迫される者たちの呪いは効力をもつのだといまは思っています。人は生き延びるために復讐が希望になります。アンモン人もモアブ人も、われわれの先祖ヘブライ人から受けた屈辱を忘れていなかったのです」

「バビロニアとメディアも同じ轍を踏むと言いたいのか?」

「すべては……くりかえしなのではないでしょうか」

 数日後――。

 ダマスカスの郊外に至り、野営したのちに、秦野がデイオケス麾下のメディア軍にくわわった。

「アンタの話やと、秦野は宦官長に気に入られてるはずやのに、なんでこっちへ追いられたん?」

 ルーシーは口の端でほんの少し笑い、

【あらたな役目を申しつかったのでしょう】

「だれから?」

【むろん、神官長のレソンです】

「神官長……?」

【宦官長のアシュペナズは、何事も神官長の意向なしに行動しません。ネブカドネザル王の気欝症も、彼らによってもたらされたのです。デイオケスに毒をもったのも、神官長の手の者でしょう】

 秦野はデイオケスの天幕に入り浸った。

 ヤディは不満げだったが、彼女はデイオケスの側女のようにふるまった。野営地で、わたしたちとすれちがっても目すら合わせなかった。ドラはそのつど哀しげに鳴いた。ルーシーは慰めるつもりなのか、ドラの小さな頭を舐めていたが、舌が乾いているので以前のように子猫の毛が濡れてぺしゃんこになることはなかった。

 秦野を友達だと思ったことは1度もないけれど、なぜか淋しかった。気づくと、時計の針が7分7秒すすみ、3時43分13秒。

「24日間はとっくに過ぎてしもたなぁ。この時計も2回、巡ったみたいやし、もうちょっとでこの夢も終わるのかなぁ。もとの時間、忘れてしもたわ」

【犬の寿命はどれほど長命であっても25年ほどです。あなたはわたしの顔の白髪に気づいているのでしょ? 時計の針は22時間近く経ったことを示しています。そうです。あなたや黒猫は少しも変わりませんが、わたしはそうではありません。いつ命が尽きてもおかしくない年齢に達しているのです】

「ルーシー……アナタが死んだら、アタシも死ぬ。友誼を誓った友なんやもん。使命なんてクソくらえやけど、アンタのためやった命を使う」

【心にもないことを言ってわたしを泣かせないでください。まだ大丈夫です。バビロンに着くまでは死にません】

「日本犬のMIXは長寿やって自慢してたやないの」

 ルーシーは食が細くなり、のど飴も欲しがらない。

 日毎に不安が増した。

 ネブカドネザル麾下の正規軍はバビロンを目指し、巨大な鎌型の一帯、居住と耕作の可能な〝肥沃な弦月地帯〟に沿って交易路を東へむかった。片や、デイオケス率いるメディア兵と傭兵の混成部隊1万余は、ダマスカスで兵糧を補給すると、ソロモン王の敷いた〝王の大路〟を南下し、アンモンの王都ラバへ外征の途についた。

【なんども言いましたが、いくさは隊商路をめぐっての諍いです。この時代のメソポタミアでは点と線の確保と言ってもいいでしょう。オアシスとオアシスをつなく道が最重要とされたのです。交易のために通過するキャラバンから通行料を得ることが主目的でしたが、それと同等か、それ以上に兵士と戦車の移動をスムースに行なうための道路が不可欠でした。道を征する者が帝国を築くことができたのです】

「それでソロモン王はこんな荒地に道をつくったわけ?」

 ヨルダン川東岸の一帯はいばらや刺のある青あざみが繁茂しているので放牧に適さないという。

【のちのぺルシアが、アッシリアやバビロニアを凌駕する大帝国となったのには理由があります。ソロモン王と同じように〝王の道〟を整備したからです。王直属の伝令官は、現在のイラン領にある高地の王都スーサから地中海に近いスペインの西端にある都市サルディスまで、111ある駅舎で馬を替えて1週間で移動しました。ローマ帝国が長くつづいたのはペルシアの広大な道路網を模倣したからです】

「いまのアタシらとなんの関係が――?」

 周囲は切り立った禿げ山しかない。雨期になれば、濁流の通り道になるという。

【王の大路に面したアンモンの王都周辺には放牧に適した草原がわずかにあり、大麦や小麦や果実類が育ちます。他国をひざまずかせる量ではありませんが、自国の民が暮らすには充分でした】

 雨期になるまでに両国を平定しなくてはならないという。

【ヨルダン川の東に住むモアブ人とアンモン人は長く、ユダヤ人と敵対してきました。ダニエル記では、〝終わりのとき〟に、アンモン人の滅びが預言されていますが、紀元前に彼らは滅んでいます】

「預言が早まることもあるんや」 

【度重なる遊牧民の襲撃もあって、人口減少に歯止めがかからなかったのです。少しでも安全に暮らせる土地をもとめて移動するのは人の常です。この時代に国境はあっても難民という言葉はありませんでしたから、人びとは家畜を連れてユーラシア大陸を自由に往来していたので、多くは他国へ逃げ出したのです】

 さらに10日ののち、デイオケスの率いる兵士は王都ラバの城壁が見下ろす地点にまでたどりついた。

 盆地に王都はあった。

 西に塩の海、南に険しい断崖、北にヤボク川を防衛線にしたラバには、近隣から多数の避難民が逃げこんでいた。東からの入り口は常に開いていたからだ。

 乾期でヤボク川の水量は減少していた。

 鎧が重く見える、痩せたデイオケスは混成部隊を率い、先陣をきった。

 秦野も出陣した。身体に張りついた皮製の上着にズボンを身にまとい、長い黒髪と刀剣を携えて、デイオケスとくつわをならべる姿はいくさの女神イシュタルを思わせた。

兵士らは百万の味方を得たように歓喜し、雄叫びをあげた。

 兵砧部隊とともに居残ったわたしは後方から戦いの様相をつぶさに見た。ラバを守るアンモン人の前線部隊は民兵が多いせいか、盾と剣を自在に操れる者が少ないうえに統率がとれておらず、防戦一方だった。エルサレムの城内にバビロニア軍が攻め入ったときと同じ光景がくりひろげられた。

【人間は悲惨な出来事を見聞きするうちに麻痺して何も感じなくなります。この事態は偶然に起きたわけではありません。ネブカドネザル王の周到な計画の1つに過ぎません】

 自軍の獅子奮迅の働きで、デイオケスはヨルダン川東岸のアンモンをひと月たらずで平定した。ヨルダン川東岸の国アンモンは弱小国だったが、水に恵まれていたため、穀物の備蓄が大量にあった。混成部隊は戦費を調達するという名目で掠奪をくりかえした。

アンモン人は逃げ場を失い、多くの兵と民が惨殺された。

 デイオケスは敵軍兵士の投降を許さなかった。捕虜として連れ帰るには食糧が足りなかったのだ。

【イスラエルとユダがアッシリアとバビロニアの進攻で息の根を止められたように、こののちアンモンもモアブも荒れ果てる運命にあります】

 混成部隊は灼熱地獄と言ってもいいモアブのイエ・アバリムの要塞が間近に望める荒野に野営した。兵の士気は次第に下がっていった。渓谷を縫って流れる川の水が干上がっていたからだ。ワディと呼ばれる川の道は、雨期になると、濁流で兵士も戦車も通過できなくなる。ネブカドネザル王がこの時期にモアブへの進攻を命じたのはただの気まぐれからではなかった。

【防禦は攻撃より強力です。王は、面従腹背の宦官長にそそのかされ、デイオケスの率いるメディア軍がこの地で疲弊困憊するよう仕向けているのです】

「同盟国やのになぁ」

【将来、近隣の強国が日本を攻にこんだとしましょう。そのとき、米軍は、敵方の総攻撃のはじまる直前にかならず退却します。第二次世界大戦の敗北の主因は、情報戦に敗れたことだと言われています。ソ連と結んだ不可侵条約が破られ、背後をつかれる情報を上層部が無視したからです。一国が存亡をかけて戦うとき、他国と結んだ条約を考慮する国はありません】

「ほんならどうなるん?」

【いまそれを目にしているではありませんか。総参謀長は将来、バビロニアのくびきを脱するために自らを礎にしたのです。デイオケスは祖父を失い、背水の陣をしいて戦わざるを得ません】

 その夜、デイオケスの直属の部下であるヤディに、「アンモンのヤボク川まで引き返したい」と言うと、ヤディは言い放った。

「ベドウィンがそこら中に出没している。行き着く前に命がなくなる」

 ルーシーに飲ませる皮袋の水が一滴もなくなった。ドラものどの渇きを訴える。黙って出発しようかと迷っていると、澄んだ水と飼い葉が届けられた。

 水の入った皮袋からシャネル5番の匂いがかすかにした。

「秦野……」

 いろんなことがあったけれど、秦野はわたしたちのことを忘れたわけじゃなかった。なんと言って、感謝の気持ちを伝えればいいのだろう。思い出が駆け巡る。時間がどれほど流れても、お互いに何者なのかわからなくても、いつかともに帰ろう。

 わたしたちがいるべき場所へ――。

【甘い!】とルーシーは言うけれど。

 その後も水や飼い葉や食糧が届けられた。

 戦況に大きな変化はなかった。

 モアブの民は要塞に立てこもることが唯一の反撃だと知り、傭兵部隊が挑発しても乗ってこなかった。部隊内で水をめぐっての諍いが頻繁に起こり、兵士はいらだちを隠さなくなった。傭兵の中には逃亡する者まで出始めた。

 半ば、攻撃を諦め、一時的にヤボク川まで退却しようとデイオケスが決定したときだった。

 夜陰に乗じて、要塞を抜け出したと思える数人の男たちが現われた。彼らはヤディとわたしとの面会を望んだ。

 ターバンで顔を隠した男たちは、自分たちはガド族だと言った。

 半信半疑のヤディに、1人の男が「おれだよ」と声をかけた。

「その声は――」わたしは絶句した。

 男はターバンを取った。黒い布の眼帯をした男の顔が篝火に照らし出された。

風雨にさらされた鉄錆色の顔色だった。

「シャムライ! 生きていたのか」

 ヤディはシャムライの肩を抱いて喜んだ。

「死んでたまるか」とシャムライは野太い声で言った。

「杭にかけられのじゃないのか!?」とヤディ。

「バビロニアの若い兵士を、おれの身代わりにしたんだ」

「どうやって――」

「むくろの数がそろってれば、あいつらは見逃すのさ」

「残りの者も助かったのか?」

「いや、おれひとりだ。キタバらは神の為されることに逆らえないと言って、逃亡することを拒んだ。しかし、おれが逃げるのを手助けしてくれた」

「ハカシャは――」

 話に割って入ったわたしは、ハカシャの安否をたずねた。兵士への賄賂はハカシャ自身だったにちがいないと思ったからだ。

 シャムライは答えなかった。

 彼の仲間の1人が力をこめて言った。

「長年の宿怨を晴らすときがようやく訪れたのだ」

 シャムライと同行している者たちは、かつてラバを治めていたガド族の子孫だった。彼らはアッシリアに攻められたとき、ふた手に別れて逃れたという。壮年の者は最期の決戦に備えて北王国の王都サマリアへ、20歳に充たない者は女と子どもを連れアッシリア軍の追っ手がやってこないモアブの荒地へと逃れた。

「わたしが従軍していることを、なぜ、知ったのだ」

 わたしが問うと、シャムライは破顔した。

「犬を連れた魔物の話はキャラバンが移動するところなら、だれもが知っている。何しろ、青いあざに黄金の頭だからな。バアルの化身だと崇めているやつもいる」

「何しにきた?」ヤディが訊いた。

「おれたちが要塞の門を開ける」

「助けてくれたモアブ人を、裏切るのか?」

 わたしの問いかけに、シャムライは眼帯で隠しきれない鼻から頬にかけての傷跡に手をやり、その手でわたしを指さした。

「助けられたんじゃない。奴隷にされたのだ。バビロニア軍の包囲で、奴隷の身分から兵士になっただけのことだ。中のやつらは、ユダ王国が滅んだことを小躍りして喜んでいたよ」

 不敵な面構えに変貌したシャムライは、以前の勇敢で実直な少年ではない。闘志がむき出しになっている。ダニエルへの敬愛が彼の闘争本能を抑制していたのだろう。

 そのせいか――、

「ダビデやソロモンがひどいことをしたからだ」

 わたしは思わず、彼の顔を見た。

「強い国が弱い国を滅ぼすのは世のならいだ。おれはガド族の兄弟となった。ユダの民のように何事も神の定めたことだと考えない。いま1度、戦って祖国を取りもどす」

「何が望みだ」ヤディは静かにたずねた。

「おまえが護衛部隊長なんだろ? おれたちを加わえてくれ」

 アンモンとモアブの攻略にさいして、総司令官に任命されたデイオケスは、信頼のおれる部下2名を1個師団1万人を2軍にわけ、それぞれを率いる司令官に昇格させた。新たに司令官となった2人は大隊・中隊・小隊の長を決めた。

 デイオケスは最後に、自身を守る護衛部隊の隊長にヤディを就かせた。シャムライらは同じガド族のヤディの指揮のもとで戦いたいという。

「デイオケス総司令官の許しを得るまで、この場で待つように」

 ヤディがいなくなると、シャムライはふと思いついたように、秦野の所在をたずねた。デイオケスとともにいると答えると、シャムライは「おれは子どもだった」とつぶやいた。

「あれほど美しく強い娘を見たことがなかった。斥候役だったので、戦うさまも見分したが、アンモンの男たちは誰ひとりかなわなかった」

 人間ほど厄介な生きものはいない。自分自身がおのれが何を求めているかを知らないのだ。そしてそれに気づいたとき、求めていた何かを失っている。

 秦野は自分のそばにドラをおけば、死なせると思ったのだ。

 2度と会わないと言ったわたしに、水と食料を届けてくれた。

 わたしは彼女の何を見ていたのだろう。

 ヤディにもらった小ぶり弓矢を携え、アククゥツにまたがり、弓手部隊に加わった。ルーシーは引き止めなかった。その気力を失っていた。ドラは教えなくても、ルーシーに付き添った。

 シャムライらが門を開けたことで、戦闘は半日で終わった。

 デイオケスの軍はモアブとアンモンを平定し、現在のバクダッドの南90㌔にあった王都バビロンに帰還するまで8ヵ月を要した。貧しい国から富を奪うことは時間を要した。ユダ王国がそうであったように、目もくらむような金銀の貯えがあろうはずがない。食糧は兵站に必要だった。それ以外の金目のものは生き残った人間しかいない。家畜と食料を奪われた彼らは餓死するしかない。

 旅の途中、ヤディに習い、弓矢の稽古に励んだ。

  26 魔都バビロン

 いく本もの鉄柱に支えられた円形の大広間の天井はドーム球場のように高い。柱といわず壁といわず至るところに取り付けられた燭台の灯りが並み居る男女、髭面の男たちや着飾った女たちの顔を一様に紅潮させていた。男たちはユダの民と異なり、筒型や三角形や丸い帽子をかぶっていた。色彩も豊かだった。

 わたしとルーシーとドラも、この場にいた。

 最前列にいる占星術師のナイードはヨアキムの要請をうけて通行証をしたためたことすら記憶していないだろう。招待客が大広間に入ってくるとき、壁ぎわにうずくまったわたしとルーシーに彼は目の端にも入れなかった。

 白く長いひげにおおわれた顔面は穏やかで気品があった。

 すぐ後ろには、つき従うヨアキムの姿があった。ヨアキムは高い背を二つに折り、黄ばんだ満面の笑みを浮かべて王族にあいさつをしていた。フードとマントを脱いだヨアキムは華美な装いにならないように配慮していることがうかがえた。

 見た目はどうあれ、すべての物事は、ヨアキムの意のままになっていると知る者はいく人いるのだろう。

 ナイードは予告した。『約8ヵ月間、金星は西の空にとどまり、その後2週間、金星は見えなくなる』と。わたしなりに解釈すると、その2週間の間に、何かが起きるということではないのか。

【この宴は、ネブカドネザル王がエルサレムを従えたことを祝して、王宮内の謁見の間で催されています】

「ヴィジョンで見た謁見の間よりずっと広いなぁ」

 まつりごとの話し合いをする部屋と客間との違いだという。

【3000人の客が招かれています。このたびの戦役で功績のあった軍人を筆頭に、王に仕える王侯貴族、腸卜僧や富裕な商人などです】

 リブラでヨアキムに会ったことは、ルーシーに話していない。話さなくても、ルーシーはヨアキムが何者なのか、わたし以上に知悉していると思うからだ。

 広間に入る前に、ハカシャを見かけた。子どもらしさはすっかり消えて上目遣いに顔色をうかがう狡猾な顔つきに変貌していた。

【時は人の運命を変えるのです】痩せ細ったルーシーは嘆く。

「ダニエルのためやったら身代わりに処刑される覚悟でいたハカシャがなぁ。いつのまにか、アシュペナズの身の回りを世話する侍童になるやなんて――」

【ハカシャが自らを犠牲にしなければ、ダニエルさまがアシュペナズに選ばれないと知ったのでしょう。美少年3人とともに夜毎、王の食卓で食することはないと……】

「ダニエルは、キタバやハレやティイワのことは忘れたんやろか?」

【エホヤキン王は履物さえ取り上げられ、他の奴隷とともに徒歩で連行され、バビロンに到着するやいなや牢獄に閉じこめられました。おいたわしい】

「祝勝会に招かれたんやから、暗い話はやめとこ。おいしいもんでも食べるか」

【何も食べたくありません】

 人目につかない柱の陰にいる場所からでも、壇上のネブカドネザル王の威光はかいま見えた。

 神官長のレソンは数段高い玉座に座したネブカドネザル王に腰を屈めて言上した。

「シュメルとアッカドの王にして、世界の四方の王であらせられる閣下の寿命長久をベル・マルドゥク神に祈願いたしますとともに、この場に参集できました幸せに手足の震える思いでございます」

 王の頭上には、平定した国ぐにの城壁をかたどった黄金の冠が燦然と輝いていた。その大きさに仰ぎ見る者たちは圧倒された。王の隣の椅子に座した王子の頭上にも、宝石をちりばめたティアラが輝いていた。ルーシーの頭にも、真新しい布でつくられたターバンが巻かれていた。鼻の上の中心には、ラピスラズリやルビーや黒曜石などの飾りのついた止め金が光っている。

 なんの功績もないのに王からたまわったものだ。ナイードの働きかけがあったのだろうか? わたしは自分に使わず、病み衰えたルーシーを飾ることにした。ルーシーの目は白濁している。それを宝石の輝きで紛らわしたかった。

 王は宣言する。

「こたびの戦役をもって、わがバビロニア帝国はパレスチナ一帯の主人となった。海に面した小国ペリシテとユダの南のエドムは服属国となり、帝国の歴史にまたひとつ、花冠を添えられた。が、しかし、これは序章にすぎぬ。陸地は西にも東にも無限に広がっている。海にもだ。余は未だ、四周の王とは言えぬ。まことの王、王のなかの王とならねばならぬ。遠洋航路が可能な都市ティルスに橋頭堡を築き、是が非でも鉱石の産地キプロスを掌握し、大海に面したあまた国を掌中に治めねばならぬ。その偉業を成し遂げ、頂に立つのは、わが帝国をおいて他にない」

 バビロンの主立った人びとは、王の宣言に感嘆の声をあげた。バビロンこそが不滅の都だと。

 わたしはため息をついた。

「ナンバーワンになったら、あとがない。いつかはだれかに追い越される」

【王にそれを伝えても、王の決心はかわらない。なぜかわかりますか?】

 首を横に振ると、

【人の一生はまばたきするほどの長さですが、後世に名を残すことで永遠に生きられると思うゆえです】

 この壮大な都が消滅しても、ネブカドネザルの名はたしかに後の世の人びとに伝えられる。『ダニエル書』があったからだ。

 宴の場にダニエルは姿を見せていないが、彼がこののち王の側近となり、バビロニアがペルシアに敗れたのちもペルシアの王のもとで高位の者となる。

 そんなろくでもない未来なんて、知らないほうがいい。

「バビロンってけっこう寒いな。夏の間中、ひいひい言いながら行軍して、帰ってきたと思たら雨ばっかり降るし」

【キスレウと呼ばれる第9の月は、羊の冬ごもりの季節ですからね。敵対する国同士、暗黙のうちにいくさを止めるのです】

「せっかく大昔にやってきたんやから、ビジョンやなしに実物のバビロンを見物しようと思て、ここまでやってきたけど、ほんまにくたびれたわ」

 もとの時代の神戸に帰る気持ちをなくしかけていた。神戸の養父母のことは大脳が削除したらしく、安否を気にかけなくなっていた。   

 存在そのものが煙のごとく消えていた。

「シデオン将軍、これへ」と王は言った。

 その声は丸天井に響き、天から降ってくるように聞こえる。

 色鮮やかな武具をまとったシデオンは華美な装いの貴族らをかき分けるようにして王の前に進み出た。百戦錬磨の兵士の顔つきではなかった。やや肥り気味の脂ぎった形相は祝宴にふさわしい。

「ユダの王と数千のユダの民を引き連れての帰還は、大儀であった」と、王はねぎらった。

「有り難きお言葉、いたみいります」将軍は低頭した。

「つぎなるティルス攻めにあたり、そなたは総参謀長と副司令官を兼務せよ。総司令官となるデイオケスを助け、いかんなく知略を発揮せよ」

 将軍が口を開こうとしたせつな、

「いくさとは賭けだ。思いがけないことが起こり、それをきっかけに思わぬ幸運が転がりこむことが往往にしてある。アンモンとモアブを平定し、無事に帰還したデイオケス将軍、これへ」

と王は言った。

 長旅の疲れを顔に張りつけたままのデイオケスはシデオン将軍の後方に片ひざを突き、深く頭を下げた。

「陛下のご下命とあらば、この命を惜しむものではございません。御意に従いますが、ティルスを攻めるにはいま少し、時を要するかと――まずメギトにて陣を張り、南のエジプトを牽制し、ティルスの地形を詳細に調べたのちに兵砧を整え、陛下を交えて軍議をもたれてはいかがかと存じます」

 神官長のレソンは進み出ると、デイオケスではなく並み居る家臣にむかって言った。

「わが君は英明にして剛直、バビロニアの神々の象徴とも称されるお方であらせられます。小国の平定はマルドゥク神の思召しであります。総司令官となられたデイオケス殿が、躊躇されるには理由がございます。こたびの戦役の第1の功労者はデイオケス殿の亡き祖父、フラワルティ総参謀長と思われておられる故かと――殊勝な心がけに胸が打ち震えます」

「そのような……」と言いかけて、デイオケスは口をつぐんだ。

 ネブカドネザル王は玉座から立ち上がり、ユダ王国の戦利品である神殿の金杯にバビロニアの酒アラックをなみなみと注ぎ、広間を埋める男女を前に語った。

「わが国が多く産する、やしの木は年の日数と同じほどの用途がある。その種はすりつぶしてラクダのえさになり、酒、蝋、砂糖、タンニン、樹脂などもこの木から得られる」

 だが、オリーブの木も役立つと王はつけ加えた。

「とくに、その年のはじめになった実を絞ってできた油は食しても、髪やからだに塗っても、よい香りがする。同じように、ユダの女も、わが帝国の女に比べて見劣りするが、中には思いがけぬ者もいる。今夜は、その者をみなに披露しよう。よいな、デイオケス」

 立ちかけたデイオケスは中腰の姿勢で固まった。彼の表情が強ばるのが遠目であっても見てとれた。もしやと予感した通り、広間に現われたのは秦野だった。3千人もいるところでは芥子粒ほどにしか見えないが、まだら模様の腰帯に、赤紫の薄絹をまとった彼女の妖艶な姿にバビロンの高官とその妻たちが魅せられたことはよくわかった。

「お待ちを――ミタマはユダの女ではありません」

 デイオケスは立ち上がり、壇上の真下に進み出た。

 帯刀は許されているが、この場に護衛部隊は招かれていない。

 王はデイオケスの動きを封じるように、「さぁ、あやかしの術をみなに見せてやれ」と秦野に命じた。

 人びとは息を殺して前方を見つめた。デイオケスが事を起こせば、王の不興をかい、彼も秦野も処罰されるだろう。

 秦野はデイオケスを片手で制すると、

「陛下のお望みとあれば、なんなりと」

「おお、そうだ」王は酔っていた。「王妃にあやかしの術を見せてやってくれ」

【王妃は、人前に出ることを厭われる方なのに……】ルーシーがつぶやく。【ご自身が見せ物になる宴にはけっしてお出にならない。王子が側女の子であることも王妃の立場を弱くしています】

 しばらく待ったが、それらしき女性は姿を現わさなかった。

「――はじめよ」と王は秦野に命じた。

 秦野は白い顔をさらに白くし、王に向かって両の手を差し伸べた。引き寄せられるように壇上の王が両腕を真横にひらくと3㍍ほど浮き上がった。

 黄金の王冠をかぶり、宝石をちりばめた純白の寛衣をまとったネブカデネザルは居並ぶ廷臣と将校を見下ろすように宙に留まった。

 秦野はおそらく傘から化学繊維の布地を剥ぎ取り、黒い色を抜き、王の背後に垂れているカーテンと同色に染め、強度の紐をつくったにちがいない。王と秦野は充分な打ち合わせをして魔術のように見せかけたのだ。

 広間の客は歓声をあげた。

 女たちは秦野の美貌もさることながら、不思議な妖術に強く惹かれたようだった。宰相のナボニドスが神官長のレソンとともに玉座のある壇上にあがると、床に降りた王の無事を確かめるように傍らに立った。ナボニドスのうしろには宦官長のアシュペナズが影のように従っている。この男がカーテンの後ろで王を吊り上げるのにひと役かったのだろう。

「陛下、いかがでございましょう。明日の競技会において、この者とベルテシャザル(ダニエルの別名)とを闘わせては?」

 ナボニドスはネブカドネザル王の父の友人だった。王の側近と呼ばれる者たちはみな年老いていた。宰相の地位についたとき、ナボニドスはすでに老年であったが、いまではだれよりも王の信任を得ていた。しかし、その心を支配しているのはアシュペナズの賄賂だだとルーシーは告げる。

「望むところでございます」と秦野は応じた。「1度はベルテシャザルさまに敗れたこの身、ユダの神に守護されたお方にわたくしのつたない術では太刀打ちできませんが、陛下のご所望とあればなんのためらいもございません」

「王妃を呼べ」と再度、ネブカドネザル王は言った。「おまえの気の入りのミタマが、参内していると伝えよ。王妃が顔を見せなければ、ミタマが悲しむとな」 

 王の言葉が、後宮に伝わると、アミティス妃は数人の侍女にかしずかれて、その姿を見せた。王冠はかぶらず、顔と黒い豊かな髪を隠すようにベールをかぶっていた。からだの線に沿った純白の衣を身にまとい、腰に赤い色の帯をした王妃は王の前に出ると、拝礼した。

 ルーシーは嘆く。【同盟国メディアのキャクサレス王の娘である王妃は政略結婚でしたが、王によく仕え、王もまた王妃への愛を隠しません。メディアの高山に囲まれて育った王妃を慰めるために、平坦な湿地帯のバビロンに故郷を忍ばせる空中庭園を造ったほどですからね。でも、物静かな王妃に王は飽き足らないのです】

王は王妃の顔をのぞきこみ、「宰相が、デイオケスの側女と王子の気に入りのベルテシャザルとを競わせよと言うのだが、どう思う?」

 広間は静まり返っていた。王はティルス攻めを推奨するダニエルが勝利し、秦野が破れると信じている。まやかしの奇術もそのための布石なのだ。

「陛下の思し召しのままに――」と王妃はか細い声で答えた。「ただ……」

「どうした? 先を申せ」

「王子に仕える者が勝者となったとき、王子はその者に褒美を与えると思いますが、万が一、デイオケスの側女が勝者となったときは陛下はこの者の望みを叶えてやれば……いかがかと存じます」

 秦野はすかさず言った。

「ティルス攻めに、いま少しのこ猶予をたまわりたく存じます」

 この地へきた最初の日、オリーブを絞る小屋で、秦野とデイオケスが出会った日のことが思い出された。あのときから、こうなることは定められていたのかもしれない。

「たしかに一考にあたいする」

 王はデイオケスを見下ろすと、

「魔女と噂される女に、そのような国の大事を話したのか」

と問うた。

「その者は側女ではなく、わが妻にございます」

「余の命令にそむくと申すのかっ!」

 秦野は王の言葉をさえぎるように、

「さきほどの願いを取り下げます。もしも、わたくしが生き延びましたなら、バアルの化身、わが友ミカエルと犬を解き放っていただきとうございます」

「わかった」

王は即答したが、

「あの者とは、敵対しているのではないのか?」

「あの者はベルテシャザルさまの友であると同時に、わたくしの友でもあります」

「何を申しているのか、余には理解できぬ」

「あの者がいなければ、この場にわたくしが存在し、陛下に拝謁する栄誉も賜らなかったゆえに申し上げているのでございます」

 彼女から盗んだ石を返そうと思った。そのときがきたのだと。

 ダニエルと闘っても、秦野に勝ち目はない。

 すでに手持ちの旧約聖書の『ダニエル書』を読み終えていたので、次の時代の覇権を手にするペルシア王に仕えるダニエルを秦野が倒せるはずがない。

【〝死の陰〟に過ぎなかった彼女は、もしかするとフォールスメモリーの力がまして、まことの心をもったのかもしれません。でなければ、デイオケスやあなたを救おうとしないはずです】

 わたしたちを常に監視している兵士らの様子をうかがいながら、わたしはルーシーはささやいた。

「秦野はシャムライへの恋心を封印した嘆きと悲しみをパワーに変換したのかもな。その力でダニエルと競い、倒すつもりなんや」

【8ヵ月前のリブラの広場での争いは前哨戦だったのです】

「ちょっと待ってよ……。解き放てということは、ひょっとして、アタシは捕まってるのん? アンタも? そんなふうに思たことないけど――そうやったんや。でもなんでよ、なんでなんよっ。逃げる気がないのに、秦野がわたしを助けようとしてるやなんて、おかしないか?」

【あなたもいずれ、サバン・秦野と闘うことになるでしょう】

「冗談を言わんといてよ。いまのアタシはだれとでも仲良くするつもりやのに」

 そうしないと、ルーシーが生きのびられない気がしていた。

【天使に殉教はつきものです】

「殉教て……。とっくの昔、天使のおつとめを放棄してるねんから神界文書を管理してる部署に抗議してよ」

【まことに遺憾ですが現在、魔界からのサイバー攻撃にあっている最中のため、天界の情報セキュリティ省との交信が途絶しているのです。父の名をかたる者たちの仕業です。わが子ひとり思いのままに操れない父の覇権も長くないでしょう】

「お父さんが失業したら、お母さんはいまより苦労するのとちゃうのん?」

【大儀のためには致し方ありません。きたるべき神の御国のための犠牲です】

 わたしたちの前方の柱の影で、デイオケスを見守っていたヤディがそばにきた。ヤディはいくさがつづいたせいか、以前にも増して猛々しい顔つきになっていた。

「ミタマとは友人なんだろ?」

 返事に窮していると、「ミタマに力を貸してやってほしい。デイオケスさまの願いだ。対価は、おまえの乗り物だ」

「自転二輪車のことか。あれは王のもとにある」 

「先に言っておく。アククゥツは返してもらう」

 わたしは訝しんだ。「おまえはミタマを嫌っていたのではないのか」

「われわれを追ってきたミタマを側女にした日から、デイオケスさまはいくさに勝ちつづけている。いまでは、あの女なしで、デイオケスさまはいくさ場に立てない」

「ミタマは王に問われたとき、デイオケスのためにティルスとの戦争を先のばしにしたがっているように聞こえたが、ちがうのか」

「……陛下の本心は、ミタマを欲しがっている。デイオケスさまをいくさ場にやり、その間に、ミタマを後宮の女にするつもりだ」

「だれからそんな話を?」

「王妃に従う者たちだ。宦官長のアシュペナズが宰相の命令で、ダニエルを王に近づけたのは王を亡きものにする謀があったからだと聞いている。しかし、やつらの期待を裏切って、ダニエルは王子の側近となった。ダニエル、いやベルテシャザルを排除するためなら、王の側近はなんだってやるだろう」

「ミタマは宦官長に命じられてダニエルと闘うのか?」

 ヤディはうなずき、

「神官長のレソンはアシュペナズと手を組み、腸卜僧や祈祷師をおのれの配下におき、何人も王子に近づけないように謀ってきた。ダニエルをただの子どもだと侮っていたが、美しいうえに、非常に聡明だ。ダニエルにかわる者がいないのだ」

「ミタマは、レソンの密偵だと聞いたが……」

「たしかに、われわれもそのように疑っていたが、いくさ場ではデイオケスさまを何度も救った。いまでは警護隊の者でミタマを疑う者はいない」

「……」

 傲慢だった彼女は献身的な魔女に変身したのかもしれない。

「占星術師のナイードと商人のヨアキムは、ベルテシャザルの味方なのか?」

「あやつらが何を目論んでいるのか、だれにもわからぬ」

 ヤディが足早に立ち去ると、【露見しない罪などありません】とルーシーは言った。【神の目にただしくないことを行なったせいで裁きがくだるのです】

「だれのことゆーてるん?」

 バビロニアの庶民が身につける筒状の衣服をまとい、腰帯をしたわたしは、乾燥したイチジクをかじりながら金冠頭をかしげた。

「神サンの目にかなう人間なんておらん」

 突然、広間に響く人びとの話し声が遠ざかり、婆サンとコマさんの悲鳴が耳の奥で聞こえた。

 砂塵の中からヨアキムが現われる寸前、秦野の緑色の瞳に赤い飛沫が見えたときも、彼女の声にならない悲鳴が聞こえた気がした。『むりやりイヤな男に汚されて、なんにも悪い事なんてしてないのに、なんども死のうとして死ねなくて、つらくってぇ、ほんとに死んじゃって、だれかを好きになりたかっただけ。どうして、なんでもないことが、わたしにはできないのぉ~。神さまなんていやしないのよ』

 あとから思うと、『ダニエル書』の箇所を開いて秦野に見せるべきだった。マッタニヤやアシュペナズやエホヤキンなどたくさん名前は書かれていても、その中にシャムライたちの名前は書かれていない。ヤディの部下になったシャムライと秦野は再会したのだろうか? たぶんしていない。いまの秦野はわたしの知っている彼女ではないのかもしれない。

「傍観してるアタシが裁かれるんやったら文句はない」

【いつの日にか、裁きを受けるのは、わたしです。あなたではありません】とルーシーはか細い声で言った。 

  27 光から闇へ

 ユーフラテス川東岸に突き出すように建てられた旧市街に王都は建てられていた。民衆の暮らす新市街はユーフラテス川をはさんで西側にあった。どちらも高い二重の城壁で守られていたが、旧市街には居住する貴族や官僚の身分に応じて地区ごとに城壁がある。

 広大な敷地内の移動手段は、縦横に流れる運河に浮かぶ小舟が利用されていた。わたしとルーシーとドラはユーフラテス川沿いの北王宮の1室にもどった。ルーシーは少量の水を飲み、わたしはパンとチーズを食べ、ドラには川魚を食べさせた。

 ネブカドネザル王とアミティス王妃は、行列道路の北にあるイシュタルの門に面した南王宮にいる。王宮の近辺に建物はなく、王直属の親衛隊の兵士らの兵舎用の天幕が数えきれないほどあった。

 深夜、ヤディが自転二輪車をかついでやってきた。

 どこで手に入れたのか、真新しくなっている。王に召しあげられたものと、異なる。新たにつくる者が現れたのだ。

「おまえと犬が東の果ての島へ行くつもりなら、ミタマがどうなろうと、おれはともに行く」と彼はいきなり言った。

「デイオケスを兄弟だと思っているんじゃないのか?」

「いまのデイオケスさまに必要なのはあの女しかいない。おれの役目は終わった気がする」

 ルーシーはカッと両目を見開き、【おお、神よ。もしかすると、さらなる試練をお与えになるのですか。ああ、なんということでしょう】

 尻尾の毛先までぶるぶる震えている。

「この犬はどうしたのだ?」ヤディはいぶかしむ。

【事ここに至っては――】ルーシーはいらだちを隠さない【魔女を殺すしか、命を使う使命を果たせない】

「落ち着きなよ。ダニエルが勝つにきまってるし」

【邪悪な女魔法使いにけっして手を貸してはなりません】

「秦野の事情を知ったら、助けたくなってフツーとちゃうか」

 ルーシーはひと晩中、唸りつづけた。その声が、裁きがぁ、裁きがくだされると聞こえた。

 翌朝、バビロニアの国家神であり、バビロンの都市神であるベル・マルドゥクの黄金像を安置してあるエサギル神殿前の広場において、ダニエルと秦野の闘いは催された。新市街と旧市街を結ぶのは、神殿とエメテンアンキの聖塔=ジックラトの間にある1本の橋しかないが、それを渡って、大勢の市民がやってきた。アシュペナズの侍童となったハカシャが人混みをかきわけてやってきた。

 なんの用があってきたのかとたずねた。

「わかっているでしょうね? ダニエルさまは何人にもかえがたきお方なのです。もしも魔女に加勢するようなことがあれば、宦官長を通じて、陛下に処罰していただきます。罪名なんていくらでもあるんですから」

 憤りで全身の毛穴が突起した。

 ルーシーは牙をむきとハカシャを威嚇した。

 ハカシャは眉をしかめると、「わたしを甘くみないでください。なんのために宦官長の侍童になったのか、醜い顔のおまえにはわからない」と吐きすて足早に立ち去った。

 対決がはじまった。

 水晶の首飾りをし、白衣に身を包んだダニエルは黒衣の秦野と10㍍ほど間隔をおいて対峙した。広場には円形の柵が設けられ、彼ら2人しか中に入れないようになっていた。2人とも武器は手にしていない。これでどうやって相手を倒せるのか?

 身分の上下にかかわりなく、みな、息を殺して見つめていた。

 ネブカドネザル王は頭から爪先まで全身をおおう黄金の鎧をまとい、聖塔の長い石段の中ほどに玉座をすえて見物している。

 太陽の陽を浴びる王は黄金の輝きを放ち、その顔を見ることができない。

「わたしは、わが神の名にしたがって、この場にいます」とダニエルが先に声を発した。

「ベルテシャザルと名づけられているのに、笑わせないでよ」と秦野は返した。

「ベルシャザルとは、王の命を保護することを祈願した名だそうね。あんたの信じる神から遠ざかったことを意味している。後の世の人間を恐れさせるために何をどう書き記そうと、バビロニアの犬となったベルテシャザルという名は消せやしない」

 そして秦野は言い捨てた。

「あんたは、自分に従う者たちを見捨てた人でなしよ」

「大天使ガブリエルの加護のもとにあるわたしに、罪深きおまえは指一本、触れることはかなわない。異端者の血は川のように流れる」

 秦野が血に染まる幻影が見えた。

 わたしは人垣の中から叫んだ。

「秦野ーっ、手出しするなっ」

 秦野は、かすかにうなずいた。監視役の兵士がわたしを捕らえようとした。

 魔除けの呪文を唱えた。光の束がダニエルを襲ったが、彼の首飾りが光を反射した。秦野は一瞬の隙をつき、ダニエルに飛びつき、彼の細い首をとらえて両手で絞めた。

「ほら、両手で触れてるわよ」秦野は笑っていた。

 ダニエルは言った。「おまえにわたしは殺せない。なぜなら、おまえは死の陰だからだ」

「ミタマ!」デイオケスは秦野の名を呼び、腰に帯びた剣をぬき、柵の内側で制止する兵士を斬り捨てた。

 騒然となった。

 デイオケスの腕には赤い数珠が見える。彼は跳躍し、柵の中に入った。彼のあとを追う護衛隊の兵士らはつぎつぎと柵を乗り越えた。ネブカドネザル王の位置からは、石段下での争いのさまは見えているのか、いないのか、黄金の像は微動だにしない。

 王は側女にしたい秦野の死も、保護下にあるダニエルの死も望んでいないはずなのに、なぜ2人を戦わせるのか……。

 王の心の迷いがそうさせるのだろうか。

 秦野はダニエルの首から手を放し、振り向いた。

「ミカエル! あの石で黄金の像を射るのよ」

「何を……」ダニエルが青ざめた。「そんな……」

「あの石はもともとミカエルの石なのよ。あんたじゃなきゃ、射られない主天使の石なのよ。神のつくった世界をつくり変えられるはず――」

 秦野は、柵の外にいるわたしのもとに駆け寄り、わたしの肩をつかみ、つよくゆさぶった。

「だから、わざとミカエルに盗らせたのよっ」

 わたしは謎がとけた気がした。迷わず、ヤディからもらった石弓で、懐にかくしもっていた石を遠く離れた王にむかって射た。届くはずのない距離だったが、石は瞬時に視界から消えた。

 大地が揺らいだ。

 黄金の像が転げ落ちてくる。

 人びとの悲鳴が聞こえる。秦野にむかって走っていたデイオケスはきびすを返し、血のしたたる剣を手にさげ、神殿の長い階段を駈け上がっていった。その後をヤディの率いる護衛隊が追う。

【金星が見えません!】ルーシーの声は悲鳴に聞こえた。【なんてことをしでかしたのです! あの像の中に王はいない!】

 秦野は悲鳴をあげた。

「ミカエル、デイオケスを止めてーっ、お願い!」

 そのときだった。秦野の脇腹をハカシャの短剣が襲った。短剣は、エルサレムの神殿で、ダニエルが自害しようとしたときに使ったものだ。

 秦野は崩れおちた。

 群衆は敗者の秦野を口々にののしり、ダニエルのために道をつくった。ダニエルはハカシャに、「末の日まであなたはあなたの道を行きなさい」と言った。

 ハカシャは泣き崩れた。

「ダニエルさまは汚れたわたしを、お許しにならない」

 シャムライは1人残り、バビロニアの兵士らを手当たり次第に襲い、走りながら斬り捨てている。秦野を助けようとしているのだ。しかし秦野が傷つけられたと見ると、シャムライは、秦野を刺したハカシャの首を一瞬で刎ねた。さらにその場にいたダニエルに剣をむけた――。

 懐の中から神殿でくすねたもう1個の金の器を、わたしは2人の間に投げた。四方から手がのびた。群衆の誰かれなしが、手のひらの大きさもない黄金の器を奪い合った。

 ルーシーは嘆き悲しむ。

【いつの間に……あなたの盗癖は生来のものだったのですね。情けない】

「記念に、1個、残しててん。役に立ったやん」

【宇宙的過程の仕掛けから人々の意識と肉体を解き放つには何を為すべきか……】

 と言ってルーシーはまぶたを閉じた。そして、よろける身体を立て直し、頭を無限大に振り、目を開けると、自分の尻尾を噛もうとしてその場で狂ったように回った。

 倒れこむ寸前に【無からを有へと導け!】と吠えた。

 長剣が出現した。周囲の命あるすべてのものが一時的に停止した――というより削除された。ルーシーとわたし以外は消滅した。

【『つるぎがある。とぎ、かつ、みがいたつるぎがある。殺すためにといであり、いなずまのようにきらめくためにみがいてある』。エゼキセル21章8節から10節の引用です。このつるぎでシャムライと魔女の命を絶ってください。魂が永遠に消滅するつるぎです】

「ヘビがからまってるやん!」

【青龍です】

 わたしが長剣を手にすると、青龍は消えた。一時的に削除されていた群衆が現われ動きだした。しかし、シャムライだけは剣をふりかざした姿勢で身動きしない。

 ダニエルはシャムライに蔑みの眼差しをむけた。

「あなたはわたしを殺せない」

「うるさいっ!」

 シャムライはためらっていた。

【おんぶラックもついでにだしましたから、背負ってください。もう走れないのです。そのつるぎでシャムライを殺してください】

「ほら、のど飴。アンタ潤滑油がきれてるねんわ。永遠に魂を消すつるぎなんて、そんなもんいらん」

 ルーシーは、口にねじこんだ飴を吐き出し、

【わたしたちはダニエルさまをお助けし、ペルシアの時代へと促進させるのです】

「バビロンは滅びるって神サンは決めてるんやろ? わざわざ次の時代へ促進せんでもええやん。そんなことより秦野を助けんと――」

【すべて、あなたが自らの意志で為したことだと、まだわからないのですか……天使長でありながら】

 監視役の兵士らが長剣をぶらさげているわたしにむかってくる。秦野は横むきに倒れたままだ。ルーシーを背負い、兵士にむかって全力で走った。背中のルーシーはわたしの肩に手を添えない。

 重いはずの長剣が手に納まる。監視役のバビロニア兵は剣を手に立ちふさがった。ためらいなく、斬り捨てた。

 シャムライに駈け寄り、ダニエルに対峙した。

「こうなると思っていましたよ」とダニエルは言った。

「終わりの日がくるなんて、アンタに言わせない」

「愚かな人間はおのれ自身を制御できない。血を流すだけの時を積みかさねるだけです。全能の神がこの世界を支配しないかぎり、希望はありません」

「アンタにはなくったって、みんなには希望があるんだよ」

 シャムライは秦野を抱きおこした。秦野は眉をしかめて、血の気のうせた口元に微笑みをうかべた。

「わたしのことはいいから、デイオケスを助けて……」

「像の中には毒味役の献酌官が入っている。あの者は、王の身代わりとして存在する」

わたしのためにとダニエルは言った。

「どうして……」

 右往左往する群衆と兵士の間からアリオクが現われた。

「王は、おれたち兄弟が、ユダの民だと夢にも思っていなかった」

 シャムライは歯噛みした。

「……おまえはユダの民か……」 

 アリオクは小さく笑い、

「おまえはわれわれを裏切り、北王国イスラエルの民の味方をした」

「ヨアキムの配下なのかっ」とシャムライはたたみかけた。

 わたしは秦野を寝かせると、刺された箇所を両手で押さえた。

 指の間から血があふれでる。

「ミカエルぅ、アリィはぁ、死なないからぁ……」

「魔女だもんな……ずっとずっと死なないよ……」

 振り返ると、デイオケスは石段の下に落ちた黄金の像の頭部を刺し貫いていた。彼を護衛するヤディらは勝ちどきをあげた。

 彼らはバビロニアの王を殺害した思いこんでいる。

 総参謀長はこの光景を想像しただろうか。

 神官長ら王の側近はとっくに姿を消している。怒号が飛びかい、兵士でない男たちもいつのまにか武器を手にしている。ネブカドネザル王の味方ばかりではない。このときとばかりに、敵対する民族同士が互いを殺し合っている。

 ダニエルは口元に微笑をうかべたまま立ち去ろうとした。

【魔女は死にます。ダニエルさまの預言を実現できます。あなたは使命を果たせます……】

「待てよ」わたしはダニエルを呼び止めた。「預言者には、人間の感情がないのか。バビロニアを滅ぼす目的のためなら、自分に仕えた者たちの命はどうなってもいいのか。それが預言者の為すべきことなのか!」  

 ダニエルは足を止めた。そして微笑を絶やさずに、

「あなたは地獄の最下層に囚われてもいいのですか? 神の掟に抗うということは争いの場にとどまることを意味します」

「ミタマがぁ、ミタマがぁ、死んでしまう!」

 シャムライはつるぎを捨て、号泣しながらダニエルの足元にひれ伏した。

「ダニエルさま、お力をお貸しください!」

 腕時計を見る。2時30分00秒。6分と6秒。逆戻りしている!

「もとの時間、5時46分52秒から遠ざかってる……」

【あなたが自身で選んだことです。大いなるお方は最初の人間をおつくりになったときから、自由な意思を持つことを許されているのです】

 わたしが選んだことなのか、このありさまが……。

「天使長であるなら、その証として、為すべきことを為しなさい」とダニエルは言った。

「為すべきこと?」

【シャムライと魔女を殺せ】ルーシーは苦しい息の下から言うが……。

 ダニエルにむかって魔除けの呪符を唱えると、周囲の喧騒から隔てられた。どこからか、さすらいびとの女の人が黒猫のドラを連れてやってきた。

 ドラは秦野に近づき、秦野の白い頬を舐めた。ニャアと小さく鳴いた。ドラの鳴き声を耳にしただけで涙腺が崩壊しそうになる。

「あなたはもはや天使長ではない」とダニエルは言った。

 ルーシーは牙をむき大きく息を吐き、【生きるも死ぬもともにと誓った友を、あなたはなんど裏切れば気がすむのですか】

 さすらいびとの女の人は秦野に歩み寄った。そして、手にしていた鏡を秦野に手渡し、彼女の頬の涙をぬぐった。

「ママ……やっときてくれたのね……ずっと待ってたのよ」秦野は声にならない声で言った。

 女の人はダニエルの前に立った。

「母上……あなたがなぜ……」ダニエルは頭を左右にふった。「魔女め! わが母の姿に似せるとは許せぬ」

「わたしはすべての子の母」と女の人は言った。

 そして、彼女は玩具の木の自転車を、わたしに手渡した。

 突然、ルーシーが遠吠えを発した。

【われ、神のくびきをくだかん。光から闇へとわれらを導け! 死から不死へと導け!】

断末魔の声だった。

 漆黒の闇にわたしはおおわれた。

 ダニエルの声が頭の中で聞こえた。

「あなたは鬼神だった。住む人のいないバビロンにただ独りでたたずむことになる」

 荒野に独り立つ自分の姿が目の前に浮かんだ。


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